koohiiko77の日記

感じたこと、伝えたいことを書いていきます。

パイロットフィッシュの妻

 こんにちは、こーひい子です。ここのところ、また寒さが戻ってきましたね。わたしのパソコン、Macbook Airに触れる手の平の下の部分は、触れるまで暖房で暖まっていたのに、キーボードを打ち始めるとひんやりします。夏に手を置いた時はどんな感触だったのか、今は全く思いだせません。

 

 ではでは本題です。

 

 「そうか、もう君はいないのか」 ー城山三郎

 

 城山三郎さんをご存知でしょうか?

 正直にいうと、わたしはこの本が文庫として発売になり手に取るまで知りませんでした。その時期自分では多くの小説を読み、作家の方の名前はある程度は知っていると思っていました。けれど知りませんでした。

 城山三郎さんは経済小説を中心に書かれた小説家です。しかしこの本は小説ではなく、著者が亡くなった妻・容子さんについて書いている手記です。

 夫婦という形で誰かとずっと生きていくということは、そして時が経ち離れていくということは、一体どういうことなのでしょうか。

 

① 妖精が落ちてくる

 

 とまどって佇んでいると、オレンジ色がかった明るい赤のワンピースの娘がやって来た。くすんだ図書館の建物には不似合いな華やかさで、間違って、天から妖精が落ちて来た感じ

「あら、どうして今日お休みなんでしょう」

 小首をかしげた妖精に訊かれても、私にも答えようがないし、ずっとそこに立っているわけにもいかない。仕方なく、私は家へ戻ることに決めた。 

 

 著者の容子さんへの表現は素直で、愛が深いです。わたしの周りにいる男の人で、奥さんのことを「妖精」くらいに褒めている人は聞いたことがないです。照れているのか、男の人が女の人を褒めないこの国の空気のせいなのかは分からないですが。とにかく男の人は奥さんのことをあまり褒めないので、珍しいなぁと感じました。

 「妖精」と言いあらわした著者の気持ちを考えてみます。まずこの言葉はいなくなってしまった妻に知ってもらいたい、聞いてほしい言葉なのではないかと思います。著者は生きている間に、容子さんに向かって、声に出して「君はまるで妖精のようだ。」と伝えられていたのでしょうか?

 わたしは伝えられなかったから、文章にしたのではないかと想像します。後悔なく伝えることができていたならば、文章として書き出すことができるほどの気持ちも、著者の心の中には残っていなかったと思うから。

 もしくは伝えても伝えても、伝えたりなかったのかもしれません。

 伝えられなかったのが良いとか悪いとかそういったことは考えません。そこは個人の自由なので。ただ一緒に考えてほしいです。一緒にいる時に惜しみなく自分に愛を伝えてくれるのが良いのか、それとも離れたあとに自分のことを思い出し言葉を尽くしてくれるのがいいのか。どちらのほうが後悔が残らないか。

 どちらにしても、離れたしまったあとの悲しみは変わらないけれど。

 

② パイロットフィッシュという役割

 

 もともと私は慌て者というか、すでに何度も書いたように、せっかちな人間だが、それでいて、腰を上げるまでには、時間がかかる。人見知りをするし、出不精なせいもある。

 このため、容子で代行できることがあれば、まず容子にやらせた。つまり、彼女は私のパイロットフィッシュ役。

 

 パイロットフィッシュとはどういう意味でしょうか?

 

 熱帯魚などを水槽で飼育する際、先に水槽で飼育して目的の魚に適した環境を作り上げるために利用する魚。

                        ーWikipediaより引用 

  

 つまりは容子さんが著者の周りの環境をつくり上げてくれた、サポートしてくれたことの賛辞として、パイロットフィッシュという言葉を使っているんですね。

 今はもう奥さんにこの言葉を言うのは失礼にあたる時代です。自分の仕事もしっかりあって、旦那さんに収入面で依存することのない女の人が増えている時代です。

 時代によって人間関係の形も違い、周りに求められる能力も変わり、奥さんを褒める言葉も変わっていくんですね。

 私は本書でこのパイロットフィッシュのくだりを読んだ時、著者と容子さんが生きていた時代の「普通」について考えました。旦那さんは自分の家族を支えるために一所懸命外で働き、奥さんは家事や子育てを完璧にこなし、旦那さんに文句を言ってはいけないという暗黙の約束があった時代。

 強制されて抑えこまれていた制約は、時間が経てば無理がたたってほどけてしまうんですね。

 

③ 容子さんを亡くしてからの日々

  通夜も告別式もしない、してとしても出ない、出たとしても喪服は着ない。お墓は決めても、墓参りはしない。駄々児(だだっこ)のように、現実の母の死は拒絶し続けた。仏壇にも墓にも母はいない。父の心の中だけに存在していた。他人知らぬ、踏み入れられぬ形で。形式的にも、現実の出来事としても、母の死を捉えることは耐えられなかったのだろう。メモ魔の父の手帳には、〝その日″の空欄に、

「冴返る 青いシグナル 妻は逝く」

とだけ記されていた。

 

 上の文章は著者の次女、井上紀子さんが書かれたものです。

 著者は容子さんが亡くなったあと、うしなった悲しみに苦しみます。長い間人生を一緒に共有してきた人がいなくなるというのは、まるで自分の体の一部を持って行かれたような状態ではないでしょうか。

 うしなってしまった悲しみのなかにいる人に対して、周りのできることといえば、悲しみに浸っているその人を見守ることだけだと思います。その悲しみは誰も共有できないし、誰もその人に悲しまないほうがいい、前を向いたほうがいいなど言ってはいけないです。その人の悲しみは、その人にしか分からないんですから。

 

「そうか、もう君はいないのか」このタイトルからも、悲しみが伝わってきます。いると思っていたあの人を、気付いた時にはうしなっているなんて。

 

 それではまた明日。

長く続けていくこと、バトンを渡すこと

 こんにちは、こーひい子です。

 今日わたしはお昼ご飯にイカのリゾットを食べました。イカ墨とオリーブオイルのさっぱりとしたソースにお米にしみこんでおり味わいが深く、イカのぷりぷりの食感も楽しめました。日本にいて、数駅遠くのレストランに行っただけなのに、外国の知らない食べ物にばったり出会えるのは良いですね。

 ではでは本題です。

 

 「ミナを着て旅に出よう」 ー皆川明

 

 「Mina perhone(ミナ・ペルホネン)」というブランドをご存知ですか?

 1995年にこの本の著者でもある、皆川明さんが立ち上げたブランドです。(設立当時のブランド名は「mina(ミナ)」)

 服、カバン、さらにマスキングテープなどミナ・ペルホネンの商品はあります。布地からオリジナルのものを作っているのが特徴的です。

 

 この本には、なにが書いてあるのでしょうか。

 

① すでにあるシステムの中に入らないこと

 

 デザイナーズブランドやメーカーに入ろうという気が起きなかったのは、そういうところに所属をしてデザインをするということは、今あるファッションの流れと同じ服を作る一人になってしまうし、僕としてはそれにはあまり興味がなかったんです。

 

 企業に入った場合、自分の考えだけを形にしていこうというスタンスは、きっととれなかったでしょう。デザイナーがデザイナーでいられないというか、本来デザイナーがとるべき行動はとれなかったと思うんです。

  

 著者は服の専門学校を卒業したあと、服のメーカーなどに就職はせず、アルバイトをしながら自分のブランドを立ち上げます。

 他の人が立ち上げたブランドのもとで働きながら、自分のブランドの準備をするというやり方もあったと思います。なぜ著者はその方法を選ばなかったのか、考えてみました。

 著者にとって自分で新しいものをつくりだすということは、0から、新しいものをつくるシステムもつくるということ。

 布地もそうです。すでに売られている布から服をつくるのではなくて、布地も自身でつくっています。自分でつくるものが多ければ多いほど、道のりは長くなります。そして自分でつくり上げるものが多ければ多いほど、すでにある道ではない、新しい道へと進んでいきます。その道を進んでいるのはその人だけなので、独自の創造が許されます。大変ではありますが、すでにある道よりも、自由が許される道です。

 誰もが一から道をつくることがないと思いますが、自分が一番納得のいく道をあきらめずに探すべきなんですね。

 

② 挑戦をつづけるということ

 

 明らかにこれはやる意味がないということには挑戦しないけれど、やる意味はあるけれど失敗しそうというところまでは挑戦するというスタンスですね。

 

 たぶん、長く続いているブランドも、そこまでくるのにたくさんの失敗をしていると思うし、失敗しないようにするっていうことは、過去の成功したデータに基づいて進んでいくということだから、それでは結局過去のスタイルをなぞるだけになってしまう。僕はそういうやり方はしたくないんです。

 

 挑戦をするには、勇気が必要です。しばらくの間勇気を使っていないと、勇気を使わない状態にどんどん慣れていきます。そして勇気を使うようになると、勇気を使う状態にどんどん慣れていきます。

 著者のように新しいものをつくりだす仕事している人には、勇気が必要です。他の人と違う道を歩くにも勇気が必要ですし、失敗する可能性があるものに自分の人生を使うことにもたくさんの勇気が必要です。

 勇気を持っていない人は、どうやったら手に入れられるのでしょう。

 シンプルに、素直に「勇気をもつ」と自分で決めること。それしかないんですよね。

 

③ 長く物事を見つめるということ

 

 僕は不器用だからこそ、あまり早く服の作り方を習得するのはどこか怖いという気持ちがあって、極端に言えば、10年後に洋服が作れるようになっていればいいかなっていうくらいの気持ちでやってました。例えば陸上でいうと、小さいときにウエイトトレーニングをしてしまうと、将来伸びるはずの身長が伸びなくなってしまうということがある。それと同じで、洋服をきちんと理解していないうちにいろいろやってしまうと、そのあとの成長に問題が出てくるかもしれない。気長にずっとやっていれば、いつかきっと覚えられるだろうと思ってました。

 

 僕は、ミナを本当に長く続けたいと思っているんです。今は100年後に向けての準備期間だと考えて、毎日を過ごしています。数年の波やいろいろな出来事も、100年単位で考えれば大したことじゃない。

 

 一つのことを長くつづけていくには忍耐力が必要です。やり抜く力は大事だと、ほとんどの人が言います。

 正直なところ、私は誰もが一つのことをやり抜ける力をもともと持っているのか、分からないです。分からないので、信じることができる領域です。誰もがやり抜く力を持っていると。

 

 著者が100年後もミナ・ペルホネンを続けたいと思う、理由はなんでしょうか?

 おそらく著者自身にも解き明かすことができていない気持ちなのではないかと思います。

 子供を生んで次の世代にバトンを渡していくように、私たちは次の人たちに何かバトンを渡すために生まれたのかもしれません。著者はミナ・ペルホネンというバトンを持っているのでしょう。

 

 ミナ・ペルホネンの服、本当に可愛くてわたしも欲しいのですが、わたしの経済状況では買うことができません。くぅっ、自分がふがいない・・・!マスキングテープで今は我慢することにします。

 

 ではではまた明日。

 題名の意味は、今も分からない

  

こんにちは、こーひい子です。今日は腰が痛いです。猫背のままずっと座っていたからでしょうか?

 去年から通っているホットヨガに行けばすぐに良くなると思うのですが、ちょっぴり面倒くさい。座り方の問題ならば、骨盤矯正ができる椅子を買えば一発解決です。

 ではでは本題です。

 

 「叶えられた祈り」 ートルーマン・カポーティ

 

 トルーマン・カポーティはご存知でしょうか?

 オードリー・ヘップバーンの映画でも有名な、「ティファニーで朝食を」を書いた小説家です。アメリカの作家ですでに30年以上前、1984年に亡くなっています。

 

 この小説はヨーロッパやアメリカにいた貴族や上流社会の人たちの姿を描いた小説です。地位と財産に恵まれた人々と、その人たちに群がる成功を名誉を求める人々。彼らは華やかで豪華な交友、娯楽を謳歌しています。

 しかしわたしはこの小説を読んでいる時、寂しい、心からの喜び、幸福を失った人たちの姿を想像してしまいます。笑ってはいるけれど、うつろな表情の人たちです。主人公もそうです。小説家として成功したいという夢は持っているけれど、自分という存在に対して卑屈な感情を持っています。お金のために沢山の人に体を売り、時には人を騙します。

 幸せな雰囲気とは遠ざかっている小説です。

 そして小説の良いところは、私たちが知らない場所の美しさや、その他の魅力をすくいとって見せてくれるところです。残酷だけれど綺麗。恐ろしいけれど目が離せない。こういう世界は、現実では近づくことができない、知ることができないです。だからこそ、もっと知りたい、想像したいと読んでしまいます。

 

②美しく汚らしい、慈悲をもたない世界

 

 第3章「ラ・コート・バスク」のアン・ホプキンスの話を紹介します。

 

 小説の中ではうわさ話の一つとして語られている、アン・ホプキンスという田舎の貧乏な家に生まれた女の子の話です。彼女は一度、結婚と離婚をしています。けれど彼女の巧妙な策略が成功し大金持ちのデヴィッド・ホプキンスと結婚することに成功しました。そこから彼女はデヴィッドの妻として、夢に見ていた上流階級の世界へ参加することが許されるようになります。彼女は華やかな生活を楽しみながら、デヴィッド以外の男の人とセックスをすることも楽しみました。デヴィッドとアンの間には絆はありませんでした。アンはデヴィッドのお金と地位が目当てで結婚したのですから。

 そんな時、デヴィッドはアンがいなければ結婚する予定だった、またいとこのメリー・ケンドルと再会します。そしてデヴィッドはメリーと再婚するためにアンと離婚をする準備を始めます。

 浮気の証拠をデヴィッドが雇った探偵が掴んでも、スキャンダルは避けたいホプキンスの父親のため、デヴィッドは証拠を法廷に持ち込むことができません。けれど探偵は、アンの一度目の結婚の離婚が成立していないことを突き止めます。この事実があればデヴィッドは離婚ができるはずでした。けれど上手くいきませんでした。

 離婚の話をされた時、アンはデヴィッドと離婚することによって失ってしまう「遺産」のことを考えました。デヴィッドが再婚してしまったらもらえなくなってしまう多額の財産のことを考えました。

 そしてアンは空巣がやったかのように見せかけて、デヴィッドを殺しました。

 読んでいて、ひどいなと思いました。そしてこの小説に書かれている人たちのお話は、アンの話と似ています。人と関わりあう上で、愛や優しさがともなっていないんです。薬物やセックスに溺れていて、お金で人との関係を保たせてます。その人たちの心の中を想像すると、虚しさを感じましたが、その一方で滅びていく美しさも感じました。

 どの人も心が安定していません。不安定で、ずっとそばにいてくれる、自分を愛してくれる誰かを求めている。けれどどうにもならないまま死んでしまったり、弱っていってしまう。綺麗だった花が水を吸い尽くし、徐々に枯れていく姿に似ています。花の芽が開いて枯れていくまでを見せられているようなものでした。華麗だった世界が、萎んで消えていく。怖い世界でした。

 

② 「叶えられた祈り」とは、どういう意味?

 

 叶えられなかった祈りより、叶えられた祈りのうえにより多くの涙が流される       ーアヴィラの聖テレサより

 

「叶えられた祈り」というタイトルは、何を指しているのでしょうか。

 考えてみます。「叶えられた祈り」という言葉を、願っていたものが現実になったというように仮定します。そして叶えられなかった祈りはまだ、叶っていないのだから現実にはなっていない。

 涙が流されるというのは、願いが叶って現実になった結果、誰かを傷つけたりしてしまったという意味でしょうか?それとも感動の涙でしょうか?

 涙の種類も分かりません。けれど願いが叶い、心の中だけにあったものが現実になったと考えます。そして現実になることによって、周りの人たちがその願いによって影響を受けます。そしてその影響によって、涙が流れるということでしょうか。

 願い叶った結果、願っていたはずなのに、悲しみが生まれてしまったということでしょうか?

 

 カポーティは亡くなるまでアルコールと薬物中毒に苦しんでいたの。まるでこの小説の登場人物のようです。自分が同じ境遇にいたからこそ、この小説を書くことができ、この残酷な世界にいたからこそ、小説を完成させることが叶わないほどに苦しんで、亡くなってしまったように思います。

 

 現実の残酷な面を小説家が見つめた時、その残酷な世界から無傷で帰ってくることはできるのでしょうか?

 

 ではではまた明日。

 

センスのある人にいつも憧れている

 こんにちは、こーひい子です。突然ですが、どうして最近はこんなにも大量のIDとPWを管理しないといけないのでしょうか。

 どこかのサイトの会員登録をすると、ログインの時には必ず専用のIDとPWが必要になります。面倒くさいったらありません。いちいちメモに取ることも億劫です。

 いやいや文句ばっかり言っても仕方ない。大切なのは解決策を見つけること。パスワード管理ができるアプリ、いくつかダウンロードしてみます。

 ではでは本題です。

 

「センスは知識からはじまる」 ー水野学

 

 ①センスとは、知識を積み重ねたもの 

 

 センスという言葉、苦手です。一体この言葉は何をさしているのか、わたしははっきりと説明することができないからです。

 「あの人はセンスがいい。」とか、「あの子の作品センスないよね。」などこの言葉を使っているのを時々聞くけれど、センスとは本当はなんなのか、いまいち分かっていません。

 辞書を覗いてみます。

センス【sense】

 

物事の微妙な感じや機微を感じとる能力・判断力。感覚。 「ユーモアの-」 「

-に欠ける」             ー大辞林第3版より 出典:三省堂

 

 ようは自分の感覚や判断力のことのようです。

 

 次にこの本の中を覗いてみます。

 

センスとは知識の集積である。これが僕の考えです。

 

知識とは紙のようなもので、センスとは絵のようなものです。 

 

 センスって、勉強したら手に入るようです。でしたらぜひとも欲しいです。

 考えてみます。

 わたしが素敵な絵を探して買いたいと思ったとき、素敵な絵を見つけるためのセンスが必要になります。そこでわたしがしなければいけないのは、素敵な絵ぜんたいに共通している法則を見つけることです。法則を見つけることができたら、そう法則にあてはまっている絵を探して買えばいいだけです。

 どうしたらその法則を見つけられるのでしょうか。

 

①素敵な絵をたくさん見る

     ↓

②素敵な絵の歴史やデザインについて書いてある本をたくさん読む

     ↓

③集めた情報を整頓して、素敵な絵の法則を見つけだす

 

 なんだか素敵な絵を買うことができるような気がしてきました。

 ①と②の作業は、知識を集めることにあたります。やはりセンスの基盤は知識のようです。

 自分が持っている紙(知識)の上でしか絵(センス)を描きだすことはできません。

 まずは自分がどんな種類のセンスを手に入れたいのか考えて、そこから知識を集めるがスタートですね。

 

②すぐに成果はでるものではない

 

 センスのあるものをつくる上で大切なことが書いてありました。こちらです。

 

斬新なものを生み出した場合、たとえ成功するとしても、それには相当な時間がかかることを理解し、長期的な視野を持つことが必要です。

 

 センスという言葉を聞くと、どうしても使うだけですぐ解決することのできる、魔法のような、「生まれつき持っていた優秀な能力」というイメージがあります。

 しかし良いセンスを作るには沢山の知識が必要なのと同じで、たとえセンスのある人が新しい商品をつくっても、売れるまでに時間がかかることがあります。

 「この世界の片隅に」という映画は観ましたか?

 わたしは観ました。そして感動しました。何度か感情がたかぶり泣きそうになるシーンもありました。

 あの映画も、はじめに構想がでたのは2010年です。けれど、上手く資金が集まらなくて映画をつくりはじめることができなかったんです。配給会社やテレビ局に資金の相談をしても、調達することはできませんでした。そして、2015年にクラウドファンディングを利用して、資金を集めることに成功しました。

 クラウドファンディングとは、簡単にいうとインターネットを通して資金を集めることです。

 たとえばわたしが歌手で、CDを販売したい!という目標があったとします。けれどCDをつくるための資金がない。そんなときこのサービスを利用して、CDをつくるのを応援してくれるファンの人、支援者の人たちから資金を集めることです。

 「この世界の片隅に」はクラウドファンディングによって資金を集めることに成功して、2016年11月に公開することができました。そして映画は大ヒットです。

 もし資金が集まらなかった時期に、映画をつくるのを諦めていたら、「この世界の片隅に」はできていませんでした。諦めない力は、とても大切です。

 諦めずに何度も方法を変えて資金を集めようとした人たちの情熱の底には、「この映画は出来上がったら必ず良いものになる!」と信頼することのできるなにかがこの作品にはあったんだと思います。この作品の力に、センスのある人たちが気付いた。クラウドファンディングで支援した人たちもそうです。今は誰も知らないけれど、必ずみんなに受け入れられるって、この作品を信じたんです。

 本当に良いって、自分が信じられるものなら、すぐに諦めちゃいけないんですね。

 

③最適なものを見つける、それがセンス

 

 最後にこの文を紹介します。

 

「センスのよさ」とは、数値化できない事象のよし悪しを判断し、最適化する能力である。 

 

  最適化とは、どういうことでしょうか。

 それはナンバー1をつくるんじゃなくて、その状況でのオンリー1をつくることです。その時、その場所、その状況に一番なじむことができるものをつくることです。

 丸顔の人と面長顔の人では似合う髪型が違います。その人がどんな顔の形をしているのか確認してから沢山の髪型の中から一番似合う髪型を探しだす。それが最適化です。

 

 その時の空気によって、何が良いものなのかは常に変化していきます。

 なので絶え間なく知識を自分に入れる努力が大切で、そこからまた新しいセンスを積み重ねていくのです。

 センスって、生まれつきのものじゃないんですね。

 

 本を読むこともセンスを積み重ねる方法の一つです。わたしのセンス、磨かれているのだろうか? 

 ではではまた明日。

 ことばは浮かんでは、川へと流れていく

 こんにちは、こーひい子です。みなさん、しるこサンドはご存知ですか?あずきとりんごジャム、はちみつとかが入ったあんが入っている、あのビスケットです。子供の時に食べた方も多いのではないかと思います。わたし、あのお菓子大好きなんです。

 ふと好奇心がわき、しるこサンドを製造・販売している松永製菓さんのHPをチェックしたところ、どうやらビスケットバイキングをやっているお店や、生しるこサンドなるものもあるようです。ただひたすらしるこサンドばかり食べていたわたしの情報弱者っぷりといったら。

 ではでは本題です。

 

 「羊どろぼう。」 ー糸井重里

 

 糸井重里さんが運営している、ほぼ日刊イトイ新聞を知っていますか?

 ほぼ日刊イトイ新聞は、ほぼ毎日糸井重里さんが更新するエッセイのようなものからコラム、インタビュー記事が見られ、ほぼ日手帳、ジャムや洋服などの通信販売もあるWebサイトです。

 この「羊どろぼう」は、糸井重里さんがほぼ日に上げた原稿とTwitterのつぶやきの中から、厳選されたことばが載っている本です。わたしはこの本をほぼ日が運営している店舗「TOBICHI」で買いました。

 

  素敵だと感じたことばをいくつか紹介します。

 

すばらしいものというのは、

それに出合った人の頭をくらくらさせます。

見知っているものと、見知らぬものが、

まだら状に入り組んでいて、

「わかるようでわからぬもの」であり、

「わからぬようでわかるもの」になっているので、見ている人のこころが安定できないのです。 

  

 このことばにまずくらっとします。

 ことばを読みながら「分かる、この気持ち」と共感することは簡単です。けれどわたしはすばらしいものを見て驚いた時、どうしてくらくらしたか、自分の力で解明することはできなかったことに気づきました。

 著者はそのくらくらすることの理由を、じっくりと観察して突き止めることに成功したのです。著者は答えを、探しだしたのです。

 くらくらする理由は人それぞれで、わたしも新しくことばにして見つけられるかもしれません。次にすばらしいものに出会ったとき、なぜくらくらするのか、考えてみます。

 

「ほしいもの」を考えるのは、

おもしろいファンタジーを考えることですから。 

 

  このことばは、どういう意味なのでしょうか?

 ほしいものとは、お金や、可愛い、かっこいい恋人や、みんなに自慢できる会社に勤めているといったことではないのでしょうか。

 そうではないですよね。みんながみんな、同じものを欲しがっているわけじゃありません。

 誰もが頭の中で「ほしいもの」のことを考える時、想像力をつかいます。これが欲しいのかな、と想像して思い浮かべては消して、また思い浮かべては消して。その思い浮かべたものが、ファンタジーなんですね。

 本当にほしいものは、自分にとってとてもおもしろいものだから欲しいですよね?だから、「おもしろいファンタジーを考えること」なんですね。

 

「いい気になる」と、ろくなことがない。

でも、人間っていう生きものは、どうやらね、

「いい気になる」機会を求めているんですよねぇ。 

 

 このことばは、胸が痛くなります。

 わたしは少し気を抜くと、いい気になります。そんないい気になった自分が指をさされているように感じることばです。

 なのでこのことばは知っておいて良かった、って得した気分になることばです。わたしがこれから調子に乗って、またいい気になってしまった時に思い出してしまいそうはことばです。「あっ、そういえば、いい気になったらだめだったんだ。ろくなことがないんだ」って。

 

いつからか、ぼくは「まし」と別れました。

意識的に、「まし」ということでは決めない、

ということを決めたのです。

「まし」で決めるくらいなら、なにもしない。

それで差し支えは、いまのところ、まったくないです。

それどころか、「まし」で決めることをやめたせいで、

まったく別の角度からのアイディアや解決の道が、

すっと現れてくるようなことが、よくあります。 

 

 このことばも耳が痛くなります。

「まし」というのは、妥協だったり、ちょっとした怠けなんですよね。

 そして少しの諦めでもあると思います、「まし」って。どこかで「まし」を覚えてしまうと、ずっと「まし」を自分に許してしまいます。

 このことばを読んで、自分の中にいる「まし」の存在を思い出しました。

 ことばにされることで初めて、「まし」のすがたが見えるようになりました。

 

「人(=じぶん)がうれしいことって、どういうことか」

とにかくこればっかりを、しつこく考えることです。

逆の言い方でもいいんですよ、

「じぶん(=人)がうれしいことって、どういうことか」

たぶん、これがぼくらの最大で、唯一の仕事です。

 

 「これがぼくらの最大で、唯一の仕事」シンプルだけれど、気づくとおざなりにしてしまっているわたしたちの仕事のことが、ことばになってあらわれています。

 自分にとってうれしいこととはなんなのか、周りの人にとってうれしいこととはなんなのか。考えることをちょくちょくさぼっています。このことばを聞いて、思い出します。小さな子供のころは、とても素直に、うれしいものに対してまっすぐ向かっていく勇気と優しさがあったのに。

 

 大ざっぱに扱いがちな自分の心を、時々ちゃんと観察しないといけませんね。

 

 ところでしるこサンドのアイスがあるって知っていましたか?

 この前実家の近所にあるAEONで売っているのをわたしは見ました。ジョギング終わりに今度買って帰ります。

 

 ではではまた明日。

 

 

ナタリーはつぶやきの原料をつくっている

 

 こんにちは、こーひい子です。今日は暖かいですね。春になったらスーパーで売られている焼き芋がなくなってしまうのが残念です。自分でさつま芋をふかして食べればいいのでしょうが、それは焼き芋ではないし、わざわざ焼き芋機はいりません。ではでは本題です。

 

 「新しい文章力の教室 苦手を得意に変えるナタリー式トレーニング」

                     コミックナタリー初代編集長 唐木元

 

 「ナタリー」をご存じでしょうか。

 わたしがナタリーを知ったきっかけは、映画版「モテキ」でした。主人公の幸世くんが働いていた会社です。映画版の「モテキ」、大好きで5回は観ました。

 「ナタリー」は音楽・マンガ・お笑い・映画・ステージのニュースメディアです。毎日沢山の記事を更新しており、月間約2000本を超える記事を配信しています。(運営会社ナターシャHP参照)

 

 この本には文章が上手くなるためのこつが書いてありました。

 けれども、そもそも良い文章ってどんなもののことをいうのでしょうか?

 本文を見てみましょう。

 ほんとうのことをいえば、良い文章とは何か、それは「時と場合による」ものです。しかし特に初心者のうちは、目指すべき状態をはっきりと見定め、迷いなく腕を磨いていく必要があります。

 

 どうしたら文章がうまくなるか悩んでいる方にまずお伝えしたいこと。「完読されるのが良い文章」と決めると突然視界がクリアになります。 

  完読、つまり文章を最後まで読んでもらうことが良い文章の条件のようです。

 もちろん書く文章の種類は人それぞれ目的によって違います。小説だったり、論文だったり、企画書だったり。しかしどの文章でも、自分の書いたものなら全て読んでもらいたいのは同じです。

 なのでこの本では最初の目標を、「完読されるのが良い文章」と定めています。

 

 使っている言葉が難しいものばかりだと読みづらいし、必要のない、世間話に近いことを延々と書かれていても退屈してしまいます。大切なのは、文章を読む相手の気持ちを想像する力です。想像力が鍛えられれば、相手が最後まで読んでくれる文章をつくることができます。けれど相手の気持ちを想像するのって、難しいですよね。

 どうしたら読者が最後まで読んでくれるのか、この本には具体的なコツが書いてありました。

 

 わたしが実際に参考にさせていただいた部分を紹介します。

 

 ①文章を書きはじめる前に構造シートをつくる

 

 構造シートとは簡単にいうと、これから書く文章の地図のことです。

 闇雲に書きはじめても、途中で次に何を書こうか迷って手が止まってしまったり、気付かないうちに文が主題から逸れてしまうことがあります。そんな失敗をなくすために、構造シートを事前に書くことが良い作戦のようです。

 

 構造シートをつくることの大切さが、ここに書いてあります。

 

 文章を書き始めてしまえば、構造シートなんて埋めているよりさっさと書き上がるような気がする。うまくいったらそうでしょう。しかし何本かに一本は、必ず迷い道に入ってしまう題材が出現するのです。15分で書けるはずが、気付けば4時間も5時間も過ぎている、なんてざらです。

 

  まだまだ文章を書くのに慣れていない時こそ、一つ一つ骨組みから丁寧につくったほうが確実なんですね。

 

約物を使いすぎている文章は、下品に見えてしまう。

 

 約物とは文字や数字以外の記号のこと。かっこの類いや、クエスチョンマーク、リーダ、ダーシ、中黒、忘れがちなところでスペースも約物です。 

  「」『』!?〜・←こんなマークたちのことです。本当ならこういった約物にも正しい用法があるのですが、今はそのルールを破って使っている人が多くいます。私もこの本を読むまでエクスクラメーション(!)をしょっちゅう使っていました・・・。反省。驚いたときや、勢いがあることを表現したいときに(!)を使ってはいけないわけではないのですが、できるなら言葉だけで驚きや勢いを表現したほうがいいです。安易に使わないよう工夫する努力をしたほうが技術も上がります。

 

 ナタリーは、批評のない記事を配信することによって、新たな主観を生みだしています。

 

 どういうことかというと、まずナタリーのメディアポリシーは「速い」「フラット」「ファン目線」と書いてあります。

 

 「速い」はどこよりも速く最新のニュースを届けること。

 「フラット」はどのニュースを扱うときも公平に、誰かの意見に肩入れしないこと。そして批判もしない。取り上げるニュースも選り好みしないこと。

 「ファン目線」は、売る側の欲望を叶えるのではなく、ファン側の気持ちに寄り添った文章を書くこと。なのでナタリーはゴシップを取り扱っていません。

 

 今はTwitterやブログがあって、誰もが自分の好みや意見を簡単にネット上で伝えることができます。そんななか、ナタリーはフラットな、読み手であるファンの気持ちを大切にし、意見を言わない、批評の書かれていない大量の記事を配信しました。

 そしてインターネットの中でなにが起こったかというと、ナタリーの記事を元に、たくさんの人が自分の意見をつぶやきはじめました。みんなナタリーの記事を引用し、自分の趣味を書き込むようになりました。

 ナタリーはみんなが自分の意見や気持ちを表現するための材料となり、ネット上でひろく拡散していきました。こんなことを書いていると、ナタリーのニュースが読みたくなってきますね。

  疑問なのは、恋してエッチな妄想をして泣いて走ってつぶやいて踊って悪態をついてラストは泥まみれになってキスしちゃうほどエモーショナルな「モテキ」の幸世くんに、ナタリーの社員は務まったのでしょうか・・・?

 

 ではではまた明日。

 

美しさと芸術、技術

 こんにちは、珈琲子です。今年はフジロック小沢健二さんとくるりが出演することを、昨日わたしは知りました。さあわたしの有休申請は通るのでしょうか。ではでは本題です。

 

 美学入門  ー 中井正一

 

 美学とは、なんなのでしょう。

 本文のこたえを確認するまえに、わたしの頭で考えた美学の定義は、自分が美しいと信じる、法則のことでした。

 本にはこう書いてあります。

美しいこととは何であるか、芸術とは何であるかを考えたずねてゆくことが美学なのである。  ー本文より抜粋

 

 文のなかに芸術という言葉がでてきました。では、芸術とはなんなのでしょうか?

 わたしの考えた芸術の定義は、「この世界に必要はないけれど、あったほうがいいもの」です。

 本文にはこう書いてありました。

 人間が、ただ美しさそのもののみを求めて、新しい秩序を創造してみたいと考えはじめた時、ここに芸術の世界が創られて来るのである。ー本文より抜粋 

  美しさそのものを求めることのようです。

    しかし文字を追いながらわたしは疑問をもちました。絵と音楽、映画といった、芸術を表現するはずの作品が、一部は美しさを重視している作品ではないことです。社会に向けた明確なメッセージがストーリーに隠されていたり、観客の心を動かすことを最重視していたりする作品もあります。そういった作品は芸術的ではないのでしょうか?

 

 平和の大切さを強く訴える戦争映画は、映画を通して暗に観客に反戦を訴えています。観客へ言葉を投げかける、作品の外側を意識した映画です。

 エンターテイメント、つまり観る人を楽しませる作品も方向性は近いと思います。観客の人達を楽しませたりハラハラさせたり感動させたりするのだから、作品の外側、つまり実際に見る観客の人達のためにつくられている映画です。

 そして、そういった作品は芸術なのかどうか。まず、上の引用している文のように、著者は、芸術とは「美しさそのもののみを求めている」と書いています。美しさだけを求めているとするならば、観客の人達に伝えたいメッセージや、相手の反応を気にしたりはしないです。こちらにも書いてあります。

第二の意味では、彼は、その自分を、思う一杯探し求める自由な社会に生きていないのである。自分が食べるためには、また自分の舞に、鼓を打ったり、太鼓を打ったりしてくれる多くの人々と、その家族を食べさせるには、芸術としては、忍べかざる恥をも、忍ばなければならないようなことが起こるのである。馬鹿馬鹿しいと思うようなことしなければならない。ここに第二の不自由と、気の毒さがあるのである。  

 もちろん、メッセージのある映画や、エンターテイメントの要素がある映画が馬鹿馬鹿しいだなんてわたしは思わないです。ただ、この本でいうところの芸術とは違うようです。ここにも書いてあります。

 それは、練習に練習を重ねることで、鍛錬に鍛錬を積み重ねることでのみ、初めて宇宙の中に、本当の自分にめぐり逢うことが出来るのである。多くの人々は一度も本当の自分にめぐり逢わずに死んで行っているのである。芸術家だけは、それも、本当の、いい加減でない真の芸術家だけが、どんなに貧乏しても、本当の自分にめぐり逢って死んで行っているともいえるのである。

 

  芸術を追求していくことは、「本当の自分にめぐり逢う」ことだと書いています。そう考えると、芸術のために作品をつくるということは、外側にいる誰かのためのものではなく、つくりだしている自分自身を探しだす、鏡のようなものだと考えられます。少しはっきりとしない、抽象的な話になってきました。

 そしてそんな、見てくれるお客さんがいるかも分からない作品だと、売れない可能性があります。

 上の引用した部分にも書いてありますが、自分のつくった作品が売れなくて貧乏になってしまうこともよくあります。芸術家になったら、どんどん貧乏になってしまうのでしょうか?そうかもしれません。

 だけれど、美術館に行ったときに、よく分からないけれど綺麗!って思った作品はありませんか?あとは、なぜだか分からないけど、聴いた瞬間にとても良い!って音楽はありませんか?理由が分からなくても良い作品というものはあると思います。そして、綺麗事ではありますがそういった作品をつくること自体はお金にならなくても「無意味」ではありません。

 芸術家を目指していくっていうことは、貧乏になってしまう可能性もある、危険な道です。

  だけれど、生活していく、生きていくための方法を沢山考えればいいんです。芸術とは全く関係のない仕事をしながら家に帰って作品をつくったり、エンターテイメントの映画を撮りながら、自分のお金で、自分の思う芸術を追求した映画を撮ったり。自分の作品のファンが増えるように、YouTubeTwitterに投稿したり。芸術家を目指していない人と同じで、芸術を追求しながらお金を得る工夫と努力を繰り返せば、貧乏ではなくなる確率は上がります。

 わたしは、観客の人、聴く人のためにつくられたものではない、メッセージもない作品は、純粋だと思います。そういった作品には扇動やプロバガンダといったものはないですし、それに技術の高い作品には、外側に向けられてなくとも感動します。ただただ、その人の積み重ねてきた技術だけに心が動かされると思います。やっぱりそういう作品や作品をつくる人は、この世界で貴重だと思います。

 

 芸術家は、スポーツ選手に似ている部分があると思います。スポーツ選手は、練習して、記録や勝負と戦い、芸術家の人は、作品と戦っています。戦う相手は、結局外側ではなく、自分なんですね。

 

 ではではまた明日!