メールの返信速度
インターネット上で仕事を契約し、メールやチャットワークがコミュニケーションツールなったのは、対面で会うよりもやり取りはずっと早い。自分のするべき仕事にすぐに取りかかることができるので、これはとても良いことだ。
しかし気になることも出てくる。相手の返信速度だ。
メールの返信は速ければ速いほどいい。私はそう思っている。
とはいえ、返信の遅い人が怠惰なわけではない。1日1回決まった時間にまとめて返信する人もいれば、PCやスマホを頻繁に見ない人もいる。相手にも自分と同じように生活リズムがあるのだ。
みんながスマホを持つようになって、気軽に連絡を取れるようになり、自分がどんどんスピーディな返信を求めるようになっていることに気付く。スピーディな返信、という欲望が気付くとどんどん膨らんでいっている。
スマホでのメールの返信よりも、目の前の相手とのランチの方が大切なコミュニケーションだ。スマホでのやり取りでも十分な今の時代に、外で待ち合わせをして一緒にランチを食べているのだから、その人との会話を大切にした方がいい。そんな当たり前の相手の事情を私は時々うっかり忘れてしまい、相手の返信を今か今かと待ってしまう。
自分のスピードを相手に押し付けてはいけない。便利な道具がある今の時代だからこそ、相手の生活のスピードに敬意を払い、すぐの返信を待ってはいけない。スマホの返信だけでは、今相手が何をしているかは分からないのだから。
相手の速度を考えず、せっかちになっていた自分を振り返り、反省した。
良い質問の仕方を考える
起業した知人から、「企業支援を得るためにコンペに応募をするから、アイディアを考えて。」と連絡が来た。
質問がざっくりしすぎていると感じるのは、私だけだろうか。
まず、自分が起業した会社をアピールするためのアイディアを、他者に委ねていいのか。そこから私は理解できず、思考停止する。この人は何がしたくて、起業したのだろう。
そしてアイディアってなんだ。何に対してのアイディアを求めているのか、全く分からない。
頭の中のクエスチョンマークの発生が止まらないので、私はこう返信した。
①:応募をするにあたって何に対して悩んでいるのか、考えあぐねているのか教えてください
②:今考えているアイディアは何ですか?
そして返信がない。何だかもう、何がしたいんですか。
おそらくこの質問をした相手の意図が掴めないから、私は戸惑っている。質問が大ざっぱすぎて、相手が何を知りたくて連絡したのか分からない。そして「何を」知りたいのか分からない質問に、答えることはできない。
相手がすぐに答えられる適切な質問はどう作ればいいのか
まあとっても良い機会なので考えたい。考える材料にしましょう。
仮説1:相手から自分が「何の」情報をインプットしたいか考える
仮説1を踏まえると、まずその情報を知っているであろう人間にしか質問はしない。なので仮説1を考えることによってミスマッチングを防ぐことはできる。しかし仮説1に至る前に、質問の根底となるものを考える必要がある。
仮説2:自分が今「何を」知りたいのか考え、その「何を」を基に質問を作成する
これである。この「何を」の部分を明確にすることがとても大切である。明確にすることでその「何を」は他者にしか答えられないのか、それともインターネットで検索すれば見つかるのものなのか、情報収集の場所の切り分けができる。
自分が「何を」知りたいのか把握していない人からの質問は、答える側も「何を」答えたらいいのか分からない。なので結果として適切な回答を出すことはできない。
質問するのなら「何が」知りたいのか具体的に教えてください。そしてその質問をする相手がその人で適切なのか、一回考えてみてくださいな。
もちろん質問にはできる限り答えたいが、「何を」知りたいのか分からない起業した知人の質問に、即答できる能力は残念ですが私にはなかったよ。
親しくなることと遠ざかること
距離が縮まったな、と感じたあとに、少しずつ変わる相手の口調や態度に対しての応用力はまあ低い。
慎重、というか臆病なので変わる相手の態度の真意を無意識のうちに探ろうとしてしまう。親しくなったから見せてくれる態度なのか、ぞんざいになったのか。どちらでもいい、というよりどっしり構えようよ、自分。
一番努力しなければいけないのは、不安に駆られて自分から遠ざかる、ということを止めることだ。
経験からなのか、大切に感じている人ほど遠ざかりたくなる。嫌われたくないから、嫌われることをしないために会わないという、めちゃくちゃな解決策を今まで実行してきた。そしてこれまで何度も大切な人から、能動的に遠ざかった。いい迷惑だ。
遠ざからない努力が、今のところ一番自分にとって大切だ。
変わっていく相手との距離感に戸惑いながらも、遠ざからないよう努力する。逃げたい、と感じながらその場にいるようにする。
一度人と関わることを避けるようになると、以前のように何でもなく誰かと関われるようになれるまで、少し時間がかかる。けれどその作業を、一つ一つこなさなければ、階段は上がれない。
親しくなることで生まれる少し雑になったコミュニケーションを怖がってはいけない。
違う場所から違う場所へと行き来すること
昨日、「言葉のない世界での表現」と、「言葉のある世界での表現」を行き来したいということを書いた。
この2つの世界は反対の世界ではない。けれど当たり前だけれど違っていて、遠かったり、近かったり、隣にいたりする。
そしてこういった、近いような遠いような世界はまだまだある。
論理的思考と感覚的思考もそうだ。合理的であるように思考をブロックを組み立てるように突き詰めていくこともあれば、非合理的であることを許す思考もある。
行動して反省して教訓を得てまた行動する、というように生活を進めていけば目標、もしくは成長へと前に進む。そんな日常はとても大切だ。そして何もせず、ずっとベッドに寝転がり、食べたいわけでもないのにただアイスバーを食べている夏休みがあってもいい。どちらであっていいのだ。
大切なのは違う世界を行き来するバランス感覚を持つことだ。偏る人もいるけれど、私はそうじゃない。私は別の世界を行き来するバランス感覚が欲しい。そこから新しいものが見えるはずだからだ。
とにかくやれることをやろう
言葉のない世界で伝える力を持つこと
気づけば幼い頃から情報収集が好きだった。
情報収集といっても自分の生活に関係ないものの情報収集が好きだった。実際の自分の生活を改良させる意欲はなかったし、それよりももっと魅力的な情報はいくらでもあった。
情報はおもに本から、言葉から収集していた。
言葉を読むのも使うのも書くのも聞くのも好きだ。生まれながらに持った趣好だと思う。
しかし言葉であればなんでもいいわけではない。綺麗だと感じる言葉が好きだから、美しさを重視している言葉がいい。簡潔な言葉が好きだけれど、無駄がある言葉の中にも好きなものはある。
けれど、映像や絵といった、言葉ではないもので伝える力も鍛えたい。
言葉のある世界でも、沈黙が何かを伝えることがある。そして沈黙が伝える力は、言葉をあまり好まない人にも、言葉が伝えたいものを伝えることができる。
言葉のない世界で伝える力を鍛えて、またそこから得た情報を、言葉のある世界に戻したい。そうやって行き来を繰り返し、コツコツ積み重ね、淡々と自分の中にあるものを生みだしたい。
新しいものを生みだす喜びは大きく、誰も傷つけない(はず)の喜びだ。
理想の自分になるには
twitterやInstagramを眺めていると、どうしたって自分がかなうはずのない、綺麗で良い仕事をされている人をたくさん見つける。私が羨ましいと感じる人たちはキラキラアカウントではないのだけれど、キラキラしている。
どうしたら近付くことができるのか。真似をするしかない。
真似をするのか、そうか、それしか方法はないのか。
なんだか違う気がする。
自分の生活を振り返る。目の前にあるものをただただこなす日々を送るけれど、おそらく重要なのはそんな自分を客観視するクセをつけることだ。目の前のことに夢中になりながら、そんな自分を遠くから見つめる。そういった自己評価のバランスを保つことが、とても重要なことだと思っている。
客観視を忘れてしまうのはとても怖いことだと、私は思っている。
そして憧れの彼女たちも、きっとそうやって自分を成長させて眩しい姿でSNS上にいるのだと信じている。信じていたい。
ただただ物事を淡々とつづけていくしかないのだ。運を味方につけながら、コツコツと。
いや、話し合おうよ
実家がお金持ちかそうでないかと聞かれればお金持ちだ。しかし当たり前のことだが私のお金ではない。私のお金ではないのだが、援助はたくさんしてもらった。
22歳の大学を卒業するタイミングで一人暮らしになった。一人暮らしを始めた理由は、私のメンタルがぐちゃぐちゃだったからだ。とにかく家を出たい、ここではない居場所がほしい。本当に、めっちゃくちゃな状態だった。まあ甘ったれていたのである。
甘ったれていた自分を思い出すと、なんだかその都度母が隣にあらわれる。母は甘ったれていた私を助けようとして、たびたび私のそばにいた。しかし残念なことに状況は好転せず、私は今も決して「いつでも元気!大丈夫!」という状態にはなっていない。人前で泣いたり不安定になったりはしなくなったが、落ち込んで1日ただ部屋のどこかで寝そべっているだけの日もある。
ただ、自分の機嫌の取り方はさすがに覚えた。自分が何をすれば傷つくのか、何をするのが苦手なのかはわかった。自分を守るコツをやっと掴めてきたのだ。
今年に入って、実家は新しく家を建てた。一人暮らししている私の家の近所にである。一階は賃貸として貸し出し、2階には私か兄が暮らすという計画だったそうだ。
私は家を建てる相談を一言もされていなかった。家を建てるのは、母が決めたことだった。
自分はその家には引っ越さないということを家族に伝えると、もちろん反対された。家賃もかからず、今払っている家賃の分まで貯金ができるのにどうして、と言われた。そりゃそうだ。さらに家の建つ場所は都心の一等地である。私も何でこんな良い条件を断っているのかよく分からない。
自分でもよく分かっていないから、いま考えたい。
多分、引っ越してしまって、自分がだめになってしまうのが怖いのだ。甘ったれなりに、これはまずいと危機感を覚えた。
そして母は引っ越しを断った私を責めた。暗に私のために家を建てたのに、と伝えはじめた。いやいや、事前にはっきりと明確な言葉で相談してよ。家建ててからそんなこと言われても。
何もかも人のせいにはしたくない。だからこそ、線を引くときがやってきたのだ。本当のこと言うともっと前からやってきていたのだけれど、なんとなくずるずるとしていた。
心の中で線を引いて、私は自分の仕事に戻ろうと思う。