koohiiko77の日記

感じたこと、伝えたいことを書いていきます。

 題名の意味は、今も分からない

  

こんにちは、こーひい子です。今日は腰が痛いです。猫背のままずっと座っていたからでしょうか?

 去年から通っているホットヨガに行けばすぐに良くなると思うのですが、ちょっぴり面倒くさい。座り方の問題ならば、骨盤矯正ができる椅子を買えば一発解決です。

 ではでは本題です。

 

 「叶えられた祈り」 ートルーマン・カポーティ

 

 トルーマン・カポーティはご存知でしょうか?

 オードリー・ヘップバーンの映画でも有名な、「ティファニーで朝食を」を書いた小説家です。アメリカの作家ですでに30年以上前、1984年に亡くなっています。

 

 この小説はヨーロッパやアメリカにいた貴族や上流社会の人たちの姿を描いた小説です。地位と財産に恵まれた人々と、その人たちに群がる成功を名誉を求める人々。彼らは華やかで豪華な交友、娯楽を謳歌しています。

 しかしわたしはこの小説を読んでいる時、寂しい、心からの喜び、幸福を失った人たちの姿を想像してしまいます。笑ってはいるけれど、うつろな表情の人たちです。主人公もそうです。小説家として成功したいという夢は持っているけれど、自分という存在に対して卑屈な感情を持っています。お金のために沢山の人に体を売り、時には人を騙します。

 幸せな雰囲気とは遠ざかっている小説です。

 そして小説の良いところは、私たちが知らない場所の美しさや、その他の魅力をすくいとって見せてくれるところです。残酷だけれど綺麗。恐ろしいけれど目が離せない。こういう世界は、現実では近づくことができない、知ることができないです。だからこそ、もっと知りたい、想像したいと読んでしまいます。

 

②美しく汚らしい、慈悲をもたない世界

 

 第3章「ラ・コート・バスク」のアン・ホプキンスの話を紹介します。

 

 小説の中ではうわさ話の一つとして語られている、アン・ホプキンスという田舎の貧乏な家に生まれた女の子の話です。彼女は一度、結婚と離婚をしています。けれど彼女の巧妙な策略が成功し大金持ちのデヴィッド・ホプキンスと結婚することに成功しました。そこから彼女はデヴィッドの妻として、夢に見ていた上流階級の世界へ参加することが許されるようになります。彼女は華やかな生活を楽しみながら、デヴィッド以外の男の人とセックスをすることも楽しみました。デヴィッドとアンの間には絆はありませんでした。アンはデヴィッドのお金と地位が目当てで結婚したのですから。

 そんな時、デヴィッドはアンがいなければ結婚する予定だった、またいとこのメリー・ケンドルと再会します。そしてデヴィッドはメリーと再婚するためにアンと離婚をする準備を始めます。

 浮気の証拠をデヴィッドが雇った探偵が掴んでも、スキャンダルは避けたいホプキンスの父親のため、デヴィッドは証拠を法廷に持ち込むことができません。けれど探偵は、アンの一度目の結婚の離婚が成立していないことを突き止めます。この事実があればデヴィッドは離婚ができるはずでした。けれど上手くいきませんでした。

 離婚の話をされた時、アンはデヴィッドと離婚することによって失ってしまう「遺産」のことを考えました。デヴィッドが再婚してしまったらもらえなくなってしまう多額の財産のことを考えました。

 そしてアンは空巣がやったかのように見せかけて、デヴィッドを殺しました。

 読んでいて、ひどいなと思いました。そしてこの小説に書かれている人たちのお話は、アンの話と似ています。人と関わりあう上で、愛や優しさがともなっていないんです。薬物やセックスに溺れていて、お金で人との関係を保たせてます。その人たちの心の中を想像すると、虚しさを感じましたが、その一方で滅びていく美しさも感じました。

 どの人も心が安定していません。不安定で、ずっとそばにいてくれる、自分を愛してくれる誰かを求めている。けれどどうにもならないまま死んでしまったり、弱っていってしまう。綺麗だった花が水を吸い尽くし、徐々に枯れていく姿に似ています。花の芽が開いて枯れていくまでを見せられているようなものでした。華麗だった世界が、萎んで消えていく。怖い世界でした。

 

② 「叶えられた祈り」とは、どういう意味?

 

 叶えられなかった祈りより、叶えられた祈りのうえにより多くの涙が流される       ーアヴィラの聖テレサより

 

「叶えられた祈り」というタイトルは、何を指しているのでしょうか。

 考えてみます。「叶えられた祈り」という言葉を、願っていたものが現実になったというように仮定します。そして叶えられなかった祈りはまだ、叶っていないのだから現実にはなっていない。

 涙が流されるというのは、願いが叶って現実になった結果、誰かを傷つけたりしてしまったという意味でしょうか?それとも感動の涙でしょうか?

 涙の種類も分かりません。けれど願いが叶い、心の中だけにあったものが現実になったと考えます。そして現実になることによって、周りの人たちがその願いによって影響を受けます。そしてその影響によって、涙が流れるということでしょうか。

 願い叶った結果、願っていたはずなのに、悲しみが生まれてしまったということでしょうか?

 

 カポーティは亡くなるまでアルコールと薬物中毒に苦しんでいたの。まるでこの小説の登場人物のようです。自分が同じ境遇にいたからこそ、この小説を書くことができ、この残酷な世界にいたからこそ、小説を完成させることが叶わないほどに苦しんで、亡くなってしまったように思います。

 

 現実の残酷な面を小説家が見つめた時、その残酷な世界から無傷で帰ってくることはできるのでしょうか?

 

 ではではまた明日。