都合がいい、という言葉について考える
都合がいい、という言葉を人に使う時、少しだけ相手をないがしろにしている印象を持たせる(私は持つ)。しかし本当にないがしろにしているのかどうなのか、考えてみたいので考えてみます。
つごう[都合] 一( 名 ) スル〔「都」はすべて、の意〕①物事をするに当たっての事情。具合。 「明日は-が悪い」 「 -よくバスが来る」②物事をすることのできない事情。さしさわり。さしつかえ。 「 -があって行けない」③やりくりすること。工面すること。 「旅費を-する」 「 -をつけて出席する」 〔「都合により」などの形で、文書などにおいて、理由を具体的に記さずに通知する場合に用いられる。「-により本日は休業いたします」〕二( 副 )すべてを合わせた数量を指すさま。合計。総計。全部で。 「 -百人になる」 「 -いくらでしょう」
人を指して使う「都合がいい」の都合は、相手の状況が自分の状況にとって丁度いいということだ。
この「都合がいい」という言葉は、ネガティブな言葉なのだろうか?
都合がいい女、と指摘されて良い気持ちになる女性は絶対ほとんどいない。私も直接誰かに言われたことはないけれど、言われたとしたら良い気持ちにはならない。都合がいいとは、相手の状況に合わせる人のことを指し、その人のことを主体性がない人のように表現していて、そしてそれが悪いことのように表現される。
相手が求めていることをする、都合のいい存在になる、というのは大切なコミュニケーションの手段の一つではないのだろうか?
主体性があり、誰にとっても都合のいい存在にならない人は、自分の願望を誰にも邪魔されず、最短時間で叶えられるのかもしれない。けれど、一時的にでも誰かにとって都合のいい存在にならなければ、社会との接点をうしなう。誰かの役に立つことで、自分と社会との接点は生まれるのだから。
都合のいい存在に、進んで自分からなることも、人の役に立つためには必要なことだ。
生活すべてが誰かにとって都合がいい必要はないけれど、一時的に自分が誰かにとって都合のいい存在になることは、とても大切なことだと思う。それが人と関わりあうということだし、その人の役に立つことだ。
よって私は誰かにとって都合のいい存在に、生活のバランスを大切にしながらなろうと思う。自分を俯瞰して見つめることを忘れないようにしながら、なろうと思う。