koohiiko77の日記

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都合がいい、という言葉について考える

都合がいい、という言葉を人に使う時、少しだけ相手をないがしろにしている印象を持たせる(私は持つ)。しかし本当にないがしろにしているのかどうなのか、考えてみたいので考えてみます。

 

 

 
つごう[都合]
 
 
( 名 )  スル
〔「都」はすべて、の意〕 
① 
物事をするに当たっての事情。具合。 「明日は-が悪い」 「 -よくバスが来る」 
② 
物事をすることのできない事情。さしさわり。さしつかえ。 「 -があって行けない」 
③ 
やりくりすること。工面すること。 「旅費を-する」 「 -をつけて出席する」 〔「都合により」などの形で、文書などにおいて、理由を具体的に記さずに通知する場合に用いられる。「-により本日は休業いたします」〕 
 ( 副 ) 
すべてを合わせた数量を指すさま。合計。総計。全部で。 「 -百人になる」 「 -いくらでしょう」 

                出典|三省堂大辞林 第三版について | 情報

 

人を指して使う「都合がいい」の都合は、相手の状況が自分の状況にとって丁度いいということだ。

 

この「都合がいい」という言葉は、ネガティブな言葉なのだろうか? 

 

都合がいい女、と指摘されて良い気持ちになる女性は絶対ほとんどいない。私も直接誰かに言われたことはないけれど、言われたとしたら良い気持ちにはならない。都合がいいとは、相手の状況に合わせる人のことを指し、その人のことを主体性がない人のように表現していて、そしてそれが悪いことのように表現される。

 

相手が求めていることをする、都合のいい存在になる、というのは大切なコミュニケーションの手段の一つではないのだろうか?

 

主体性があり、誰にとっても都合のいい存在にならない人は、自分の願望を誰にも邪魔されず、最短時間で叶えられるのかもしれない。けれど、一時的にでも誰かにとって都合のいい存在にならなければ、社会との接点をうしなう。誰かの役に立つことで、自分と社会との接点は生まれるのだから。

 

都合のいい存在に、進んで自分からなることも、人の役に立つためには必要なことだ。

 

生活すべてが誰かにとって都合がいい必要はないけれど、一時的に自分が誰かにとって都合のいい存在になることは、とても大切なことだと思う。それが人と関わりあうということだし、その人の役に立つことだ。

 

よって私は誰かにとって都合のいい存在に、生活のバランスを大切にしながらなろうと思う。自分を俯瞰して見つめることを忘れないようにしながら、なろうと思う。