koohiiko77の日記

感じたこと、伝えたいことを書いていきます。

事実に足し算も引き算もしないこと

 こんにちは、こーひい子です。今日の朝、わたしはわたしの善きものであるローソンのLチキのレッドを買いにいき、家でよく噛んで食べました。Lチキのレッドを食べたのはおそらく20回目くらいだと思いますが、変わらずジューシィな肉汁とともにわたしの空腹を満たしてくれました。コンビニにはわたしの善きものである食べ物がいっぱいあるんですよね。

 ではでは本題です。

 

 「知ろうとすること。」 ー早野龍五 糸井重里

 

 早野龍五さんをご存知でしょうか?

 今年の3月に退官を迎えたのですが、東京大学大学院理学系研究科の教授をされていた方です。スズキ・メソード(才能教育研究会)という、音楽を使った教育法を実践している人たちの会長もされています。

 早野龍五さんの名前がたくさんの人に知られるようになったきっかけは、2011年に起きた、福島第一原発の事故のさいに、早野さんがすぐに自身のTwitterアカウントで現状分析と情報を発信したことがきっかけです。

 この本はTwitterを通して知り合った早野龍五さんと、少し前、3月17日に上場された「株式会社 ほぼ日」の糸井重里さんとの対談集です。

 

① 福島の女の子が子供をちゃんと産めること

 

 早野:そうですね。先日も、福島で行われたある勉強会の後で、中学生の女の子が「先生、それで、私はちゃんと子どもを産めるんですか」って、心配そうに質問してきたそうです。

糸井:それについては、早野先生にぜひともわかりやすく答えていただきたいです。もし、早野先生の前に女の子がやって来て、「私は子どもを産めるんですか」って、質問してきたとしたら、どう答えますか?

早野:まずは、自身を持って「はい。ちゃんと産めます」と答えます。躊躇しないで。間髪を入れずに。

糸井:ああ、いいですね。自身を持って言う、というのは、すごくいいです。

 

 この事実を知っている人は今、日本でどれだけいるのでしょうか?

 私はこの本を読むまで知りませんでした。テレビやインターネットから感じとっていた”雰囲気”で、無意識のうちに、福島の女性が子供を産むのは難しいことなのかもしれないと「ちゃんとした情報を確認しないまま」思い込んでいました。

 知らないということは、本当に怖いことだと思います。

 インターネットという新しい技術が生まれたのに、正しい、「事実」をもとにした情報を知らないままでいることが多々あります。スマートフォンを少し操作すれば簡単に手に入れられるはずなのに。正しい情報を手に入れるための環境は整ったはずなのに。

 私たちが情報を検索して、正しいもの探し出す力が足りないのでしょうか?それともインターネットの世界ではあまりにもたくさんの情報がありすぎて、探しきることが困難なのでしょうか?

 

 私の考える回答は、「多くの人は、インターネットがあった時代もない時代も、事実をもとにした正確な情報を得たいと願うほどの勇気と好奇心がないから」だと思います。

 

 事実を知ることをおそれている人は、いつも一定数かならずこの世界に存在していると私は思います。その事実によって自分が動かなければいけなかったり、自分にとって不都合な事実だったりする人に多いです。

 事実は事実でしかないから、そこに勧善懲悪も美しさも存在していなくて、残酷で平等ではないものであることが、ままあるからなんですよね。

 

 好奇心を持っている人はたくさんいます。けれど「今自分が正しいと思っている情報を疑う好奇心」を持っている人は、一体この世界にどれくらいいるのでしょうか?

 私はほとんどいないと思います。0.001%いたら超ラッキーくらいのパーセンテージでいないと思っています。

 だから、私たちは「自分には知らないことがまだまだ沢山あるということを理解して怯えながら、もしくはそれを逆に楽しみながら知ろうとする」ように努めることが大切なのだと思います。そして自分は知らない、まだまだ何も知らないということを忘れないようにすることが大切なんだと思います。

 正しい情報って本当にいきなり不意打ちに飛び込んでくるので、油断できません。

 

 そしてこの本から、本当に遅いですが(私は一体何をしていたのでしょうか)私が教えてもらった大切な情報をもう一度書きます(知らないという意識が足りなかった私に自戒もこめて)。

 福島の女性は子供がちゃんと産めるということ。

 

 いつだって命は、次の走者にバトンを渡す準備ができているんですね。

 

 この本には、私たちが知らないでいるたくさんの「事実にそくした情報」が書いてあります。ぜひ、読んでください。

 

 そしてこのブログを読み、不快な思いをした方がいたらすぐにコメントしていただけたらと思います。

 

 それではまた次の機会に。

 

いつでも愛が主要なテーマ

 こんにちは、こーひい子です。休日の朝起きてコンビニに朝食を買いに行くのがちょっとした楽しみです。「食べたい物をえらべる自由」が嬉しいんでしょうね。朝から鶏の唐揚げを買ったりもしてるので「これは朝食なのか?」と内省もしますが。

 ではでは本題です。

 

 「響宴」 – プラトーン

 

 プラトーンをご存知でしょうか。映画じゃないですよ。古代ギリシアの哲学者のプラトーンです。

 わたしはこの方のことを全く知りませんでした。今も哲学者ということ以外よく分かっていません。ただ、「哲学」という学問は、生活していくうちに自然と作りあげている定義やルールの見直といったものの参考となるので、わたしは時々読みます。時々読む程度なので、歴史を考慮して体系を立てて読んだりはしていませんが、その都度「あっ、そういう考え方もあるのね。」という気付きが得られます。

 

 ① 愛の神をどのように讃美するか

 

 本書では「愛の神(エロース)をどのように讃美するか」このようなテーマで宴が開かれます。

 

 エリュクシマコスが、愛の神(エロース)の賛美を、響宴の主題として提案した次第を。

 

 ねえ、詩人たちによって捧げられた祝歌や讃歌の類いを、愛の神(エロース)以外の他の神々は、もっているというのに、ところが、あれほども生れ古く、あれほども偉大なる愛の神(エロース)に対しては、これまで世に出た数多い詩人のうち、誰一人としていまだ讃辞を捧げたものがなかったというのだ!

 

 つまり、僕たち一人ひとりが、左から右へ順番に、愛の神(エロース)への讃辞を、それもできるかぎり美しく、語ってみては、というわけです。 

 

 というわけです。ほかの神さまを褒めたたえる詩などはあったのに、愛の神(エロース)にはなかったんです。塩を讃辞する書物さえ見つかったのに、愛の神(エロース)への讃辞がない。これがエリュクシマコスが響宴の主題にしたかった理由です。

 

 読みすすめていくうちに愛の神への讃辞は、「愛をどのように捉えるか。」という言葉に置き換えられることに気付きました。愛の神への讃辞については、どの言葉が良いのかわたしには分かりませんが、愛の話となったらグッと身近になるので言葉の意味を考えることができます。

 

 古い時代の本を読むうえでわたしが実践しているのが、今の時代のわたしが読んだらどんな教えが得られるのか、学びがあるのか。この考えを頭に置いて本を読んでいくkとです。

 その本の歴史やバックグラウンドを細かく調べるのは大変だと思うので、自分がいいな、参考になるなと感じる部分だけを探しだして掬いだすのも、読書の方法のうちの一つです。読みづらいなこの本と思ったら、読みやすくなるように自分の中で読書の決めごとをつくると以外とサクサク進みます。

 わたしは本によって読み方を変えています。プラトーンの歴史的背景も調べて読みはじめたりしたら、いつまで経っても次の本が読めないじゃないですか。

 

② 賛美の種類

 

 本書の中では、さまざまな愛の神(エロース)への賛美がおこなわれます。

 

 かくて、僕の主張はこうなのですー愛の神(エロース)は、神々のなかでも、もっとも齢(よわい)も高く、もっとも高い誉れをもち、また生者死者を問わず、人間を、徳と幸福の所有へ導く力を、すぐれてもちたもう神であると

 

 必ずしもすべての愛が美しいのでも、賛美をうけるに値するのでもなく、ただ美しい愛の行為へとかりたてる愛の神(エロース)のみが、美しく、また賛美に値するのである。

 

 この愛の神(エロース)は、最大の力を持ち、われわれ人間に幸福の一切を与え、またわれわれをして、人間同士の間においてのみでなく、さらにいっそうすぐれた神々とも交わり、親しき友ともなりうるよう、計らってくれるものなのです。

 

 愛する者のほうが愛される者よりも徳が高い。愛とは美しい行為をおこなうこと。愛は誰かを愛することだけではなく音楽、農耕学、医学などすべてに宿る者。愛とは離れてしまった自分の片割れを探すこと。愛とは自分が持っていないものを持っている者を愛するということ。

 

 たくさんの意見がでてきても、結論はありません。定義は人によってそれぞれ違うのですから当たり前です。

 「愛の神(エロース)をどのように讃辞するのか。」こんなテーマでお酒を呑むなんてこと、今では考えられません。愛よりも、話しあったほうがいいものが増えてしまったからでしょうか。それとも愛というものも、科学や行動心理学が入り込み、「議論するもの」ではなく、「解明する」ものになったからでしょうか。

 

 好きな言葉を紹介します。

 愛とは、善きものが、永久にわが身のものになることを、目的としているのです

 

 「善きものが永久にわが身のものになる。」この言葉が現実でどのような状態になれば達成されるのでしょうか。 

 

 善きもの。私は善きものとは「精神の安定」だと思っています。自分の精神が安定していれば生活もうまくいくし、周りにいる人を大切にすることができます。私にとって、善きもの=精神の安定=静かで穏やかな生活=善きものなんですよね。なんだ、深層心理診断か?

 

 善きものという言葉の定義を自分の中でかっちり決めてしまうのは良くないですが、善きものという言葉を聞いた時に何が思い浮かぶのか把握しておくと、自分のなかの指針のようなものが見えますよね。

 

 明日の朝もローソンのからあげ君が欲しくなってしまいそうです。からあげ君は私の善きものです。

 

 それではまた次の機会に。

 

 

 

私たちは壊し作り直して生きている

 こんにちは、こーひい子です。今日は表参道にあるスパイラルマーケットに行ってまいりました。わたしの部屋の白い時計はスパイラルで買い、本棚に飾っている何枚かのうちの一枚のポストカードはスパイラルで買い、今日も空き箱に貼るためのラッピングペーパーを一枚買いました。もう正直パワースポットです。

 ではでは本題です。 

 

 「動的平衡」 – 福岡伸一

 

① 動的平衡ってなに?

 

 どうてきへいこう。この言葉の意味をご存知でしょうか?

 本書の言葉を見てみましょう。

 

 これが「エントロピー増大の法則」である。エントロピーとは、「乱雑さ」の尺度で、錆びる、乾く、壊れる、失われる、散らばることと同義語と考えてよい。

 

 エントロピー増大の法則に先回りして、自らを壊し、そして再構築するという自転車操業的なあり方、つまりそれが「動的平衡」である。

 

 ここに書いてある言葉だけでは、まだ「動的平衡」の意味は分からないですね。

 わたし達の体はとめどなく更新されています。ターンオーバーという言葉はご存知でしょうか?皮膚の細胞が一定のサイクルで新しい細胞に変わっていくことです。皮膚だけではなく、体の内側にある消化管や、心臓もそうです。脳だって例外ではなく、つねに体の細胞は壊され新しい分子に置き換えられています。

 どうして体は細胞を壊しては、新しく作りなおす作業をつづけているのでしょうか?

 

 その理由を著者は、わたし達人間は時間を戻せないから、と書いています。

 時間が進んでいくと、変わらない物は風化したり錆びたりして壊れます。建築物は補修をしないで何十年も放っておくと、風と雨にあたり傷つき壊れてしまいます。

 時間が経つと、今かたちある、変化しないものは壊れていきます。

 「動的平衡」は時間と上手く生きていくために、わたし達の体が最良の作り上げたシステムです。時間が進むことによって劣化し衰え消えていく、つまりエントロピーが起きます。

 「動的平衡」はその動きに先回りをして、自ら破壊し作りなおしてエントロピーによる体の破壊を防いでいるのです。

 死を防ぐことはできませんが、「動的平衡」はわたし達の命をより遠くへと、未来へと運んでいくためのシステムです。

 

② 子供のときより、どうして時間が経つのが早いの?

 

 20代、30代と時が経っていくほどに、時間の流れが早くなっている気がしませんか?

 わたしは感じます。「あれ、もう年末?」と毎年思います。

 この感覚にもちゃんと仕組みがあり、原因はわたし達の体内時計の感覚だったようです。

 そしてもう一つの厳然たる事実は、私たちの新陳代謝速度が加齢とともに確実に遅くなるということである。つまり体内時計は徐々にゆっくりと回ることになる。

 しかし、私たちはずっと同じように生き続けている。そして私たちの内発的な感覚はきわめて主観的なものであるために、自己の体内時計の運針が徐々に遅くなっていることに気がつかない。

 

 時間の進むスピードは一定ですが、わたし達の体内時計は年をとればとるほど遅くなっています。時間が進むのが早いのでなくて、わたし達の感覚が本当の時間と遅くずれてきているんです。

 本書のこの体内時計の部分を読んでいる時に、わたしは不思議に思いました。みんながどうしてだろう?と答えが分からなかった疑問が、あっさりと本で答えを見つけられたという事実にです。

 分からないことは調べる、という習慣を自分がつけていないから、調べたら分かることをずっと知らないままなんです。

 自分が思い浮かぶ疑問のほとんどはもうすでに解決されているのではないかと、読書をしていると感じることがあります。知ろうと思い調べる習慣をつけるのが大事ですね。

 

③ コラーゲンをは飲んでも意味がない?

 

 食品として摂取されたコラーゲンは消化菅内で消化酵素の働きにより、ばらばらのアミノ酸に消化され吸収される。コラーゲンはあまり効率よく消化されないタンパク質である。消化できなかった部分は排泄されてしまう。

 一方、吸収されたアミノ酸は血液に乗って全身に散らばっていく。そこで新しいタンパク質の合成材料になる。しかしコラーゲン由来のアミノ酸は、必ずしも体内のコラーゲンの原料とはならない。むしろほとんどコラーゲンにはならないと言ってよい。

 

 衝撃の事実です。ドラッグストアに行けばあんなにもコラーゲン配合が売りのドリンクやサプリメントが売られているというのに。コラーゲン入りが売りの鍋がメニューに並んでいるというのに。

 怖いのは、誤った可能性のある情報を前提にした商品が今もたくさん販売されていることです。コラーゲンを飲めば肌が綺麗になる、という情報を疑ったこともありませんでした。街を歩いた時に触れる情報は、どこまで真実なのでしょうか?

 

 本当のことを言ってしまったら商品が売れないから。一度売り出してしまった以上訂正するわけにはいかない。おそらくこういった理由で、十分に検証されていないあやふやな情報が世の中に出ていっているのだと思います。

 誰かのせいにはせずに、どうしたら変えられるかを一緒に考えましょう。

 どうしたら正しい情報を、わたし達一人一人が拡散できるようになるのでしょうか?

 

 いまわたしが思いつくのは、浮かんだ疑問は調べる癖をつけることと、なるべく沢山の情報に触れる癖をつけることです。触れる情報が多ければ多いほど、間違いをただす情報に触れる可能性が上がり、あやふやな情報の矛盾に気づけます。できる限りのことをするしかありません。

 

 「完璧に正しい!」なんてことはないってことを、胸にとどめておくのがいいのかもしれないですね。

 

 ではではまた明日。  

 

 

 

パイロットフィッシュの妻

 こんにちは、こーひい子です。ここのところ、また寒さが戻ってきましたね。わたしのパソコン、Macbook Airに触れる手の平の下の部分は、触れるまで暖房で暖まっていたのに、キーボードを打ち始めるとひんやりします。夏に手を置いた時はどんな感触だったのか、今は全く思いだせません。

 

 ではでは本題です。

 

 「そうか、もう君はいないのか」 ー城山三郎

 

 城山三郎さんをご存知でしょうか?

 正直にいうと、わたしはこの本が文庫として発売になり手に取るまで知りませんでした。その時期自分では多くの小説を読み、作家の方の名前はある程度は知っていると思っていました。けれど知りませんでした。

 城山三郎さんは経済小説を中心に書かれた小説家です。しかしこの本は小説ではなく、著者が亡くなった妻・容子さんについて書いている手記です。

 夫婦という形で誰かとずっと生きていくということは、そして時が経ち離れていくということは、一体どういうことなのでしょうか。

 

① 妖精が落ちてくる

 

 とまどって佇んでいると、オレンジ色がかった明るい赤のワンピースの娘がやって来た。くすんだ図書館の建物には不似合いな華やかさで、間違って、天から妖精が落ちて来た感じ

「あら、どうして今日お休みなんでしょう」

 小首をかしげた妖精に訊かれても、私にも答えようがないし、ずっとそこに立っているわけにもいかない。仕方なく、私は家へ戻ることに決めた。 

 

 著者の容子さんへの表現は素直で、愛が深いです。わたしの周りにいる男の人で、奥さんのことを「妖精」くらいに褒めている人は聞いたことがないです。照れているのか、男の人が女の人を褒めないこの国の空気のせいなのかは分からないですが。とにかく男の人は奥さんのことをあまり褒めないので、珍しいなぁと感じました。

 「妖精」と言いあらわした著者の気持ちを考えてみます。まずこの言葉はいなくなってしまった妻に知ってもらいたい、聞いてほしい言葉なのではないかと思います。著者は生きている間に、容子さんに向かって、声に出して「君はまるで妖精のようだ。」と伝えられていたのでしょうか?

 わたしは伝えられなかったから、文章にしたのではないかと想像します。後悔なく伝えることができていたならば、文章として書き出すことができるほどの気持ちも、著者の心の中には残っていなかったと思うから。

 もしくは伝えても伝えても、伝えたりなかったのかもしれません。

 伝えられなかったのが良いとか悪いとかそういったことは考えません。そこは個人の自由なので。ただ一緒に考えてほしいです。一緒にいる時に惜しみなく自分に愛を伝えてくれるのが良いのか、それとも離れたあとに自分のことを思い出し言葉を尽くしてくれるのがいいのか。どちらのほうが後悔が残らないか。

 どちらにしても、離れたしまったあとの悲しみは変わらないけれど。

 

② パイロットフィッシュという役割

 

 もともと私は慌て者というか、すでに何度も書いたように、せっかちな人間だが、それでいて、腰を上げるまでには、時間がかかる。人見知りをするし、出不精なせいもある。

 このため、容子で代行できることがあれば、まず容子にやらせた。つまり、彼女は私のパイロットフィッシュ役。

 

 パイロットフィッシュとはどういう意味でしょうか?

 

 熱帯魚などを水槽で飼育する際、先に水槽で飼育して目的の魚に適した環境を作り上げるために利用する魚。

                        ーWikipediaより引用 

  

 つまりは容子さんが著者の周りの環境をつくり上げてくれた、サポートしてくれたことの賛辞として、パイロットフィッシュという言葉を使っているんですね。

 今はもう奥さんにこの言葉を言うのは失礼にあたる時代です。自分の仕事もしっかりあって、旦那さんに収入面で依存することのない女の人が増えている時代です。

 時代によって人間関係の形も違い、周りに求められる能力も変わり、奥さんを褒める言葉も変わっていくんですね。

 私は本書でこのパイロットフィッシュのくだりを読んだ時、著者と容子さんが生きていた時代の「普通」について考えました。旦那さんは自分の家族を支えるために一所懸命外で働き、奥さんは家事や子育てを完璧にこなし、旦那さんに文句を言ってはいけないという暗黙の約束があった時代。

 強制されて抑えこまれていた制約は、時間が経てば無理がたたってほどけてしまうんですね。

 

③ 容子さんを亡くしてからの日々

  通夜も告別式もしない、してとしても出ない、出たとしても喪服は着ない。お墓は決めても、墓参りはしない。駄々児(だだっこ)のように、現実の母の死は拒絶し続けた。仏壇にも墓にも母はいない。父の心の中だけに存在していた。他人知らぬ、踏み入れられぬ形で。形式的にも、現実の出来事としても、母の死を捉えることは耐えられなかったのだろう。メモ魔の父の手帳には、〝その日″の空欄に、

「冴返る 青いシグナル 妻は逝く」

とだけ記されていた。

 

 上の文章は著者の次女、井上紀子さんが書かれたものです。

 著者は容子さんが亡くなったあと、うしなった悲しみに苦しみます。長い間人生を一緒に共有してきた人がいなくなるというのは、まるで自分の体の一部を持って行かれたような状態ではないでしょうか。

 うしなってしまった悲しみのなかにいる人に対して、周りのできることといえば、悲しみに浸っているその人を見守ることだけだと思います。その悲しみは誰も共有できないし、誰もその人に悲しまないほうがいい、前を向いたほうがいいなど言ってはいけないです。その人の悲しみは、その人にしか分からないんですから。

 

「そうか、もう君はいないのか」このタイトルからも、悲しみが伝わってきます。いると思っていたあの人を、気付いた時にはうしなっているなんて。

 

 それではまた明日。

長く続けていくこと、バトンを渡すこと

 こんにちは、こーひい子です。

 今日わたしはお昼ご飯にイカのリゾットを食べました。イカ墨とオリーブオイルのさっぱりとしたソースにお米にしみこんでおり味わいが深く、イカのぷりぷりの食感も楽しめました。日本にいて、数駅遠くのレストランに行っただけなのに、外国の知らない食べ物にばったり出会えるのは良いですね。

 ではでは本題です。

 

 「ミナを着て旅に出よう」 ー皆川明

 

 「Mina perhone(ミナ・ペルホネン)」というブランドをご存知ですか?

 1995年にこの本の著者でもある、皆川明さんが立ち上げたブランドです。(設立当時のブランド名は「mina(ミナ)」)

 服、カバン、さらにマスキングテープなどミナ・ペルホネンの商品はあります。布地からオリジナルのものを作っているのが特徴的です。

 

 この本には、なにが書いてあるのでしょうか。

 

① すでにあるシステムの中に入らないこと

 

 デザイナーズブランドやメーカーに入ろうという気が起きなかったのは、そういうところに所属をしてデザインをするということは、今あるファッションの流れと同じ服を作る一人になってしまうし、僕としてはそれにはあまり興味がなかったんです。

 

 企業に入った場合、自分の考えだけを形にしていこうというスタンスは、きっととれなかったでしょう。デザイナーがデザイナーでいられないというか、本来デザイナーがとるべき行動はとれなかったと思うんです。

  

 著者は服の専門学校を卒業したあと、服のメーカーなどに就職はせず、アルバイトをしながら自分のブランドを立ち上げます。

 他の人が立ち上げたブランドのもとで働きながら、自分のブランドの準備をするというやり方もあったと思います。なぜ著者はその方法を選ばなかったのか、考えてみました。

 著者にとって自分で新しいものをつくりだすということは、0から、新しいものをつくるシステムもつくるということ。

 布地もそうです。すでに売られている布から服をつくるのではなくて、布地も自身でつくっています。自分でつくるものが多ければ多いほど、道のりは長くなります。そして自分でつくり上げるものが多ければ多いほど、すでにある道ではない、新しい道へと進んでいきます。その道を進んでいるのはその人だけなので、独自の創造が許されます。大変ではありますが、すでにある道よりも、自由が許される道です。

 誰もが一から道をつくることがないと思いますが、自分が一番納得のいく道をあきらめずに探すべきなんですね。

 

② 挑戦をつづけるということ

 

 明らかにこれはやる意味がないということには挑戦しないけれど、やる意味はあるけれど失敗しそうというところまでは挑戦するというスタンスですね。

 

 たぶん、長く続いているブランドも、そこまでくるのにたくさんの失敗をしていると思うし、失敗しないようにするっていうことは、過去の成功したデータに基づいて進んでいくということだから、それでは結局過去のスタイルをなぞるだけになってしまう。僕はそういうやり方はしたくないんです。

 

 挑戦をするには、勇気が必要です。しばらくの間勇気を使っていないと、勇気を使わない状態にどんどん慣れていきます。そして勇気を使うようになると、勇気を使う状態にどんどん慣れていきます。

 著者のように新しいものをつくりだす仕事している人には、勇気が必要です。他の人と違う道を歩くにも勇気が必要ですし、失敗する可能性があるものに自分の人生を使うことにもたくさんの勇気が必要です。

 勇気を持っていない人は、どうやったら手に入れられるのでしょう。

 シンプルに、素直に「勇気をもつ」と自分で決めること。それしかないんですよね。

 

③ 長く物事を見つめるということ

 

 僕は不器用だからこそ、あまり早く服の作り方を習得するのはどこか怖いという気持ちがあって、極端に言えば、10年後に洋服が作れるようになっていればいいかなっていうくらいの気持ちでやってました。例えば陸上でいうと、小さいときにウエイトトレーニングをしてしまうと、将来伸びるはずの身長が伸びなくなってしまうということがある。それと同じで、洋服をきちんと理解していないうちにいろいろやってしまうと、そのあとの成長に問題が出てくるかもしれない。気長にずっとやっていれば、いつかきっと覚えられるだろうと思ってました。

 

 僕は、ミナを本当に長く続けたいと思っているんです。今は100年後に向けての準備期間だと考えて、毎日を過ごしています。数年の波やいろいろな出来事も、100年単位で考えれば大したことじゃない。

 

 一つのことを長くつづけていくには忍耐力が必要です。やり抜く力は大事だと、ほとんどの人が言います。

 正直なところ、私は誰もが一つのことをやり抜ける力をもともと持っているのか、分からないです。分からないので、信じることができる領域です。誰もがやり抜く力を持っていると。

 

 著者が100年後もミナ・ペルホネンを続けたいと思う、理由はなんでしょうか?

 おそらく著者自身にも解き明かすことができていない気持ちなのではないかと思います。

 子供を生んで次の世代にバトンを渡していくように、私たちは次の人たちに何かバトンを渡すために生まれたのかもしれません。著者はミナ・ペルホネンというバトンを持っているのでしょう。

 

 ミナ・ペルホネンの服、本当に可愛くてわたしも欲しいのですが、わたしの経済状況では買うことができません。くぅっ、自分がふがいない・・・!マスキングテープで今は我慢することにします。

 

 ではではまた明日。

 題名の意味は、今も分からない

  

こんにちは、こーひい子です。今日は腰が痛いです。猫背のままずっと座っていたからでしょうか?

 去年から通っているホットヨガに行けばすぐに良くなると思うのですが、ちょっぴり面倒くさい。座り方の問題ならば、骨盤矯正ができる椅子を買えば一発解決です。

 ではでは本題です。

 

 「叶えられた祈り」 ートルーマン・カポーティ

 

 トルーマン・カポーティはご存知でしょうか?

 オードリー・ヘップバーンの映画でも有名な、「ティファニーで朝食を」を書いた小説家です。アメリカの作家ですでに30年以上前、1984年に亡くなっています。

 

 この小説はヨーロッパやアメリカにいた貴族や上流社会の人たちの姿を描いた小説です。地位と財産に恵まれた人々と、その人たちに群がる成功を名誉を求める人々。彼らは華やかで豪華な交友、娯楽を謳歌しています。

 しかしわたしはこの小説を読んでいる時、寂しい、心からの喜び、幸福を失った人たちの姿を想像してしまいます。笑ってはいるけれど、うつろな表情の人たちです。主人公もそうです。小説家として成功したいという夢は持っているけれど、自分という存在に対して卑屈な感情を持っています。お金のために沢山の人に体を売り、時には人を騙します。

 幸せな雰囲気とは遠ざかっている小説です。

 そして小説の良いところは、私たちが知らない場所の美しさや、その他の魅力をすくいとって見せてくれるところです。残酷だけれど綺麗。恐ろしいけれど目が離せない。こういう世界は、現実では近づくことができない、知ることができないです。だからこそ、もっと知りたい、想像したいと読んでしまいます。

 

②美しく汚らしい、慈悲をもたない世界

 

 第3章「ラ・コート・バスク」のアン・ホプキンスの話を紹介します。

 

 小説の中ではうわさ話の一つとして語られている、アン・ホプキンスという田舎の貧乏な家に生まれた女の子の話です。彼女は一度、結婚と離婚をしています。けれど彼女の巧妙な策略が成功し大金持ちのデヴィッド・ホプキンスと結婚することに成功しました。そこから彼女はデヴィッドの妻として、夢に見ていた上流階級の世界へ参加することが許されるようになります。彼女は華やかな生活を楽しみながら、デヴィッド以外の男の人とセックスをすることも楽しみました。デヴィッドとアンの間には絆はありませんでした。アンはデヴィッドのお金と地位が目当てで結婚したのですから。

 そんな時、デヴィッドはアンがいなければ結婚する予定だった、またいとこのメリー・ケンドルと再会します。そしてデヴィッドはメリーと再婚するためにアンと離婚をする準備を始めます。

 浮気の証拠をデヴィッドが雇った探偵が掴んでも、スキャンダルは避けたいホプキンスの父親のため、デヴィッドは証拠を法廷に持ち込むことができません。けれど探偵は、アンの一度目の結婚の離婚が成立していないことを突き止めます。この事実があればデヴィッドは離婚ができるはずでした。けれど上手くいきませんでした。

 離婚の話をされた時、アンはデヴィッドと離婚することによって失ってしまう「遺産」のことを考えました。デヴィッドが再婚してしまったらもらえなくなってしまう多額の財産のことを考えました。

 そしてアンは空巣がやったかのように見せかけて、デヴィッドを殺しました。

 読んでいて、ひどいなと思いました。そしてこの小説に書かれている人たちのお話は、アンの話と似ています。人と関わりあう上で、愛や優しさがともなっていないんです。薬物やセックスに溺れていて、お金で人との関係を保たせてます。その人たちの心の中を想像すると、虚しさを感じましたが、その一方で滅びていく美しさも感じました。

 どの人も心が安定していません。不安定で、ずっとそばにいてくれる、自分を愛してくれる誰かを求めている。けれどどうにもならないまま死んでしまったり、弱っていってしまう。綺麗だった花が水を吸い尽くし、徐々に枯れていく姿に似ています。花の芽が開いて枯れていくまでを見せられているようなものでした。華麗だった世界が、萎んで消えていく。怖い世界でした。

 

② 「叶えられた祈り」とは、どういう意味?

 

 叶えられなかった祈りより、叶えられた祈りのうえにより多くの涙が流される       ーアヴィラの聖テレサより

 

「叶えられた祈り」というタイトルは、何を指しているのでしょうか。

 考えてみます。「叶えられた祈り」という言葉を、願っていたものが現実になったというように仮定します。そして叶えられなかった祈りはまだ、叶っていないのだから現実にはなっていない。

 涙が流されるというのは、願いが叶って現実になった結果、誰かを傷つけたりしてしまったという意味でしょうか?それとも感動の涙でしょうか?

 涙の種類も分かりません。けれど願いが叶い、心の中だけにあったものが現実になったと考えます。そして現実になることによって、周りの人たちがその願いによって影響を受けます。そしてその影響によって、涙が流れるということでしょうか。

 願い叶った結果、願っていたはずなのに、悲しみが生まれてしまったということでしょうか?

 

 カポーティは亡くなるまでアルコールと薬物中毒に苦しんでいたの。まるでこの小説の登場人物のようです。自分が同じ境遇にいたからこそ、この小説を書くことができ、この残酷な世界にいたからこそ、小説を完成させることが叶わないほどに苦しんで、亡くなってしまったように思います。

 

 現実の残酷な面を小説家が見つめた時、その残酷な世界から無傷で帰ってくることはできるのでしょうか?

 

 ではではまた明日。

 

センスのある人にいつも憧れている

 こんにちは、こーひい子です。突然ですが、どうして最近はこんなにも大量のIDとPWを管理しないといけないのでしょうか。

 どこかのサイトの会員登録をすると、ログインの時には必ず専用のIDとPWが必要になります。面倒くさいったらありません。いちいちメモに取ることも億劫です。

 いやいや文句ばっかり言っても仕方ない。大切なのは解決策を見つけること。パスワード管理ができるアプリ、いくつかダウンロードしてみます。

 ではでは本題です。

 

「センスは知識からはじまる」 ー水野学

 

 ①センスとは、知識を積み重ねたもの 

 

 センスという言葉、苦手です。一体この言葉は何をさしているのか、わたしははっきりと説明することができないからです。

 「あの人はセンスがいい。」とか、「あの子の作品センスないよね。」などこの言葉を使っているのを時々聞くけれど、センスとは本当はなんなのか、いまいち分かっていません。

 辞書を覗いてみます。

センス【sense】

 

物事の微妙な感じや機微を感じとる能力・判断力。感覚。 「ユーモアの-」 「

-に欠ける」             ー大辞林第3版より 出典:三省堂

 

 ようは自分の感覚や判断力のことのようです。

 

 次にこの本の中を覗いてみます。

 

センスとは知識の集積である。これが僕の考えです。

 

知識とは紙のようなもので、センスとは絵のようなものです。 

 

 センスって、勉強したら手に入るようです。でしたらぜひとも欲しいです。

 考えてみます。

 わたしが素敵な絵を探して買いたいと思ったとき、素敵な絵を見つけるためのセンスが必要になります。そこでわたしがしなければいけないのは、素敵な絵ぜんたいに共通している法則を見つけることです。法則を見つけることができたら、そう法則にあてはまっている絵を探して買えばいいだけです。

 どうしたらその法則を見つけられるのでしょうか。

 

①素敵な絵をたくさん見る

     ↓

②素敵な絵の歴史やデザインについて書いてある本をたくさん読む

     ↓

③集めた情報を整頓して、素敵な絵の法則を見つけだす

 

 なんだか素敵な絵を買うことができるような気がしてきました。

 ①と②の作業は、知識を集めることにあたります。やはりセンスの基盤は知識のようです。

 自分が持っている紙(知識)の上でしか絵(センス)を描きだすことはできません。

 まずは自分がどんな種類のセンスを手に入れたいのか考えて、そこから知識を集めるがスタートですね。

 

②すぐに成果はでるものではない

 

 センスのあるものをつくる上で大切なことが書いてありました。こちらです。

 

斬新なものを生み出した場合、たとえ成功するとしても、それには相当な時間がかかることを理解し、長期的な視野を持つことが必要です。

 

 センスという言葉を聞くと、どうしても使うだけですぐ解決することのできる、魔法のような、「生まれつき持っていた優秀な能力」というイメージがあります。

 しかし良いセンスを作るには沢山の知識が必要なのと同じで、たとえセンスのある人が新しい商品をつくっても、売れるまでに時間がかかることがあります。

 「この世界の片隅に」という映画は観ましたか?

 わたしは観ました。そして感動しました。何度か感情がたかぶり泣きそうになるシーンもありました。

 あの映画も、はじめに構想がでたのは2010年です。けれど、上手く資金が集まらなくて映画をつくりはじめることができなかったんです。配給会社やテレビ局に資金の相談をしても、調達することはできませんでした。そして、2015年にクラウドファンディングを利用して、資金を集めることに成功しました。

 クラウドファンディングとは、簡単にいうとインターネットを通して資金を集めることです。

 たとえばわたしが歌手で、CDを販売したい!という目標があったとします。けれどCDをつくるための資金がない。そんなときこのサービスを利用して、CDをつくるのを応援してくれるファンの人、支援者の人たちから資金を集めることです。

 「この世界の片隅に」はクラウドファンディングによって資金を集めることに成功して、2016年11月に公開することができました。そして映画は大ヒットです。

 もし資金が集まらなかった時期に、映画をつくるのを諦めていたら、「この世界の片隅に」はできていませんでした。諦めない力は、とても大切です。

 諦めずに何度も方法を変えて資金を集めようとした人たちの情熱の底には、「この映画は出来上がったら必ず良いものになる!」と信頼することのできるなにかがこの作品にはあったんだと思います。この作品の力に、センスのある人たちが気付いた。クラウドファンディングで支援した人たちもそうです。今は誰も知らないけれど、必ずみんなに受け入れられるって、この作品を信じたんです。

 本当に良いって、自分が信じられるものなら、すぐに諦めちゃいけないんですね。

 

③最適なものを見つける、それがセンス

 

 最後にこの文を紹介します。

 

「センスのよさ」とは、数値化できない事象のよし悪しを判断し、最適化する能力である。 

 

  最適化とは、どういうことでしょうか。

 それはナンバー1をつくるんじゃなくて、その状況でのオンリー1をつくることです。その時、その場所、その状況に一番なじむことができるものをつくることです。

 丸顔の人と面長顔の人では似合う髪型が違います。その人がどんな顔の形をしているのか確認してから沢山の髪型の中から一番似合う髪型を探しだす。それが最適化です。

 

 その時の空気によって、何が良いものなのかは常に変化していきます。

 なので絶え間なく知識を自分に入れる努力が大切で、そこからまた新しいセンスを積み重ねていくのです。

 センスって、生まれつきのものじゃないんですね。

 

 本を読むこともセンスを積み重ねる方法の一つです。わたしのセンス、磨かれているのだろうか? 

 ではではまた明日。