koohiiko77の日記

感じたこと、伝えたいことを書いていきます。

理想の自分になるには

twitterInstagramを眺めていると、どうしたって自分がかなうはずのない、綺麗で良い仕事をされている人をたくさん見つける。私が羨ましいと感じる人たちはキラキラアカウントではないのだけれど、キラキラしている。

 

どうしたら近付くことができるのか。真似をするしかない。

 

真似をするのか、そうか、それしか方法はないのか。

 

なんだか違う気がする。

 

自分の生活を振り返る。目の前にあるものをただただこなす日々を送るけれど、おそらく重要なのはそんな自分を客観視するクセをつけることだ。目の前のことに夢中になりながら、そんな自分を遠くから見つめる。そういった自己評価のバランスを保つことが、とても重要なことだと思っている。

 

客観視を忘れてしまうのはとても怖いことだと、私は思っている。

 

そして憧れの彼女たちも、きっとそうやって自分を成長させて眩しい姿でSNS上にいるのだと信じている。信じていたい。

 

ただただ物事を淡々とつづけていくしかないのだ。運を味方につけながら、コツコツと。

 

 

いや、話し合おうよ

実家がお金持ちかそうでないかと聞かれればお金持ちだ。しかし当たり前のことだが私のお金ではない。私のお金ではないのだが、援助はたくさんしてもらった。

 

22歳の大学を卒業するタイミングで一人暮らしになった。一人暮らしを始めた理由は、私のメンタルがぐちゃぐちゃだったからだ。とにかく家を出たい、ここではない居場所がほしい。本当に、めっちゃくちゃな状態だった。まあ甘ったれていたのである。

 

甘ったれていた自分を思い出すと、なんだかその都度母が隣にあらわれる。母は甘ったれていた私を助けようとして、たびたび私のそばにいた。しかし残念なことに状況は好転せず、私は今も決して「いつでも元気!大丈夫!」という状態にはなっていない。人前で泣いたり不安定になったりはしなくなったが、落ち込んで1日ただ部屋のどこかで寝そべっているだけの日もある。

 

ただ、自分の機嫌の取り方はさすがに覚えた。自分が何をすれば傷つくのか、何をするのが苦手なのかはわかった。自分を守るコツをやっと掴めてきたのだ。

 

今年に入って、実家は新しく家を建てた。一人暮らししている私の家の近所にである。一階は賃貸として貸し出し、2階には私か兄が暮らすという計画だったそうだ。

 

私は家を建てる相談を一言もされていなかった。家を建てるのは、母が決めたことだった。

 

自分はその家には引っ越さないということを家族に伝えると、もちろん反対された。家賃もかからず、今払っている家賃の分まで貯金ができるのにどうして、と言われた。そりゃそうだ。さらに家の建つ場所は都心の一等地である。私も何でこんな良い条件を断っているのかよく分からない。

 

自分でもよく分かっていないから、いま考えたい。

 

多分、引っ越してしまって、自分がだめになってしまうのが怖いのだ。甘ったれなりに、これはまずいと危機感を覚えた。

 

そして母は引っ越しを断った私を責めた。暗に私のために家を建てたのに、と伝えはじめた。いやいや、事前にはっきりと明確な言葉で相談してよ。家建ててからそんなこと言われても。

 

何もかも人のせいにはしたくない。だからこそ、線を引くときがやってきたのだ。本当のこと言うともっと前からやってきていたのだけれど、なんとなくずるずるとしていた。

 

心の中で線を引いて、私は自分の仕事に戻ろうと思う。

寛容さが必要になるとき

人と関わりあっていくなかで一度手痛く傷つく経験をすると、人に対して不寛容になってしまう時期がある。私の場合はそれが去年から今まで、約1年間つづいた。長かった。

傷ついたあと、どうやってまた人に対して寛容になれるのか

去年あった傷ついた経験を思い出すと、原因が相手だけにあるわけではなく、自分にもあったことが分かる。本当はその出来事が起きた直後から気付いていたけれど、その時はつらいと言い訳をして自己責任から逃げていた。認めたらやっていけない、と去年は思っていた。

 

自分が人から傷つけられたと感じると、自分を守るために固い殻を被るようになる。そしてその殻が自分から人を遠ざけるようになり、自然と私は孤立するようになった。そして孤立した自分の状態を把握して不安定になり、家で一人で泣いたりしていた。何やってんだか、もう。

 

それでも新しく人間関係を築こうとはしばらく思えないでいた。怖かったのもあるし、自分のことを惨めだと感じていたことも大きい。この年になっても安定した人間関係を育めていなかった自分が情けなかった。人に対して信頼感を持てないでいる自分が情けなかったのだ。

 

今はちゃんと怖がらずに向き合っていきたいと思える人がいる。その人は私とよく似ていて、臆病な人だ。その人から自分が逃げようと思えなかったのは、とても自分と似ていたからだ。この人から逃げることは自分から逃げることなのだと、その人と話しながら理解した。

寛容にならなければいけない時は勝手にやってくる

こればっかりは自分の決めたタイミングではやってこないのだと思う。私はそうではなかった。この人とちゃんとした信頼関係を築いていくことが自分に与えられた宿題なのだと、その人と話している時に分かった。そしてその宿題は、今までずっと自分がさぼりつづけて逃げていた宿題なのだ。他の人に比べてスタートはとても遅いけれど、もう始めないといけない。

 

社会ぜんたいが寛容さを失っている、というネットニュースを今日見たけれど、寛容さがなくても生きていける時代なのだと思う。人と向き合わず、仕事をして生活をしていくことは可能だ。けれど、どこかで宿題はやってくる。逃げつづけることはできない。

 

人と向きあう大きな覚悟がなかった自分を、今私は省みて、改めて情けないな、と感じる。そして覚悟を決める。覚悟を決めないと、進めない局面がやってきたのだ。そして以前は進めなかったその道を、今度はちゃんと進みたい。

 

特定の誰かに対して寛容であるということは、誰かの人生の一部を背負うことでもある。背負った重さに負けないようにして、歩きたい。

誠実な人とはどんな人?

昨日鳥居弘文さんの「隠居系男子」の「倫理観と誠実さを持ち合わせ、人柄が良くセンスあるヤツが勝つ時代。 | 隠居系男子」を読み、考えたくなったことがある。誠実な人とは、どんな人のことを指すのか考えてみたくなった。

 

誠実な人とはどんな人のことを指すのか

①:約束を守る

②:遅刻しない

 

一番はじめにパッと思いつく、私にとっての誠実な人間の条件はこの2つである。そして意外と(意外じゃないのか?)、この2つの条件を守れない人は多い。

 

約束を守れなくても、特に友人関係にヒビが入らない人もいる。またたびたび遅刻をしてきても、許してくれる人もいる。けれど私は約束を守らず、遅刻をしてくる人達の一部になんとなく、心の中で壁をつくってしまう。その違いは何なのか。

 

「ごめんなさい」を素直に言えない人が苦手だ。

 

「ごめんなさい」が言えない人は他者を敬っていない人

ごめんなさいを言えない人は、なんとなく自分の行動を言葉で肯定しようとする。朝が苦手で、とか、いいじゃん、とか。時には約束を守れない、遅刻をしてくる彼らを許せない私に対して、え、怒ってるの?と聞いてくる人もいる。いや、怒ってるよ。

 

誠実な人というのは相手の事情に敬意を払える人のことなのだ。おそらく相手が遅刻をしてもなんとも思わない人もいると思うし、ごめんなさいを言われなくても気にしない、という人もいるだろう。

 

けれどみんながみんなそんなに心が広いわけではない。だから「ごめんなさい」を言ったほうが良いのだ。たとえ自分が友人が約束を守れなくても全然平気でも、もしかしたら相手は約束を守ってもらえなかったことを許せない人かもしれないから。

 

相手と自分は価値観が違う、という当たり前のことを忘れないようにして、コミュニケーションは取った方がいい。

 

「ごめんなさい」は私と誰かの価値感の違いを埋めるための、大事なコミュニケーションツールだ。ごめんなさいと言えばまた会話がつづいていくし、ごめんなさいのあとにお互いの違いを言い合える。私、遅刻にあんまり寛容じゃないの、とか、俺、遅刻まったく気にしない人なんだ、とか。価値観の確認作業ができる。

 

誠実な人って、お互いの違いを踏まえたうえで他者とコミュニケーションが取れる人のことなのかも。

 

相手と自分は価値観も、嫌いなものも、連絡をする頻度も、金銭感覚も、人生の優先順位も何もかも自分とは違うのだ。違うのが当たり前なのだ。

 

相手をこうだと「決めつけない」という自分への約束が、誠実さへの第一歩だ。

 

お腹が空いていると集中力があがる

今日気付いた、とても大切なことがある。

 

それはお腹が空いている時の集中力の高さである。お腹が空いていると、仕事がとてもはかどる。なぜ今まで気付かなかったのだろう。

 

夜ご飯の時間を2時間うしろにずらすだけで、夜ご飯を食べる前の2時間、かなり集中して作業を行うことができる。そして作業をこなすスピードも速い。

 

これが効率を上げる、ということなのか。

 

自分が手を動かした分だけお金が生まれる仕事は、1日にどれだけ手を動かすことができるようになるか、そのシステムづくりが要になるけれど、これまで私は劇的に生産性を向上させられる方法を見つけられないでいた。

 

そして今日見つけた。お腹が空いた状態で仕事しつづければいいんだ。

 

となると次に考えなければいけないのは夜ご飯のタイミングである。私は夜ご飯を食べたあともカタカタパソコンを打って仕事をするので、その時間の集中力は下がる。まあまた考えよっと。

 

1日のつくり方は人によって様々だけれど、会社などに勤めていないと、自分の好きなように1日のペース配分を考えつくり上げることができる。それはとても良いことだと、私は思っている。自分の1日のペース配分を考えることは、楽しいことだから。

 

1日の仕事量が増えることは今のところ私にとって喜びだし、これからもベストな1日の使い方を考え、試し、改良していきたい。お金とか生産性といった言葉を抜きにしても、これはとても楽しいことだ。自分が改良されていく喜びだ。

 

とりあえず今はほんっとうにお腹が空いたので、夜ご飯を食べます。

自分の正しさをうたがう

よく分からない正義感は強い方だと思う。そして自分はそのよく分からない正義感が強いという自覚があるから、なるべく自分の正義感をうたがうようにしている。

 

正義感が強く出たときほど、誰かを傷つけている。一方向にまっすぐ鋭利な角度で突き進む正義感は、攻撃でしかない。自分が人を攻撃するものを持っているという自覚があるから、いつもうたがわなければならない。自分も人を傷つける可能性のある、危ない人間の一人であると。

 

誰かと自分の価値観が違うとき、なんとなく私は諦める。そっか、違うよね。そりゃそうだ。そして私の諦めた態度が、時々人をイラつかせる。いや、ちゃんと話してよ、となる。

 

誰かと自分の価値感がずれているとき、こちらが諦めることが優しさだと思っている(一体何の優しさなんだ)。自分の価値感を伝えるって、時には誰かへの攻撃になるから。

 

お酒飲むと自制心崩れちゃうんですけどね。

不安な時ほどイライラするということ

昨日、水野敬也さんのtwitterを見ていて、ハッとした気持ちになった言葉がある。

 

ー今日、とんでもないことに気づいてしまった。自分がイライラしているとき、その原因をたどっていくと、ほぼすべてが

 

「俺の評価が下がるかもしれない」

 

という不安にたどりつく。

                        ーtwitterより引用 

 これ、私もそうだ。この気持ちとても分かる、共感できる。自分が感じるイライラの原因は、結局のところ不安だ。「私、もしかしたら今の態度、嫌われたかもしれない。」「昨日の私、良くなかったかも・・・。」終わったことを思い出し、相手からの自分の評価を考えて、怖くなり不安になるのだ。

 

不安になると、臆病な自分がその不安を打ち消そうとするかのように、イライラし始める。「だって仕方ないじゃん」とか、本当にしょうもない言い訳すら思いつく。

 

相手から自分の評価が下がって怖いのは、誰にも嫌われたくないという、しょうもない願望をまだ捨てられていないからだ。

 

できるなら誰にも嫌われたくない。この願望こそただただ臆病な人が持つよく分からない願いごとである。誰にも嫌われないようにするなら、何も行動できないじゃないか。

 

嫌われたくなくて、自分の行動を思い返して時々本当に後悔することがある。年を重ねていったら減っていくと思っていたけれど、未だに2週間に一度くらい後悔する。正確には数えていないけれど。

 

イライラだってする。自分に、というよりかは誰かや状況など、自分以外の何かのせいにしたくて、多分イライラする。責任を渡せるものを探すために、イライラする。

 

つねに生まれる不安に負けないよう、忍耐力を鍛えることは、生きている間つづいていくのだと思う。