koohiiko77の日記

感じたこと、伝えたいことを書いていきます。

マチネの終わりに

 こんにちは、珈琲子です。先週の土曜日に鶏刺しと生卵の親子丼を食べ、鶏好きには幸せな週末でした。では書評です。

 

「マチネの終わりに」 平野啓一郎

 

平野啓一郎さんの本は、「私とは何か-個人から分人へ」という、分人主義について書かれている本を読んだことがありますが、この本が初めて読む著者の小説です。

 

※感想を書きますが、ストーリーに触れているところもあるので、まだ読んでいなくてストーリーを知りたくない方は読まない方がいいかもです。

 

この小説は、クラシックギタリストとして活躍する蒔野という男性と、海外の通信社で働く、洋子という女性が登場します。そしてこの2人を主軸とした恋愛小説です。
私の周りにはいない、少し特殊な職業の2人。そしてなぜ蒔野と洋子が惹かれあったのか、読み進めながら、私はずっと考えていました。
無意識であったとしても、恋に落ちるその瞬間、相手に落ちる「何か」を持っているのはあくまでも自分です。自分の中の何かが相手に反応しているのだと思います。

蒔野の場合、洋子と出会ってから演奏にスランプが訪れます。そのスランプは元々潜伏していたもので、洋子という新しい存在によって表に出てきたのか、それとも洋子とは関係なしに表れたものなのか。どちらかは分かりません。ただ、蒔野が洋子と出会った時は、蒔野にとっては変化が必要な時期だったと思います。
洋子はどうでしょうか?私は、洋子は蒔野と出会わずそのままリチャードと結婚していても、幸福だったと思います。洋子には変化が必要のない時期でした。むしろイラクから帰ってきてからの洋子には、平穏な生活が必要だったと思います。
しかし洋子は、蒔野に出会う前に<ヴェニスに死す症候群>と父親に言われるような、イラクに行くという危険な行動を選択しています。これは、日常の生活から離れる、冒険ともいえます。
そして洋子は蒔野を愛するのと同じように、蒔野の音楽を愛していたと思います。私はこの、本人だけではなく本人の創作物を愛するところに、洋子の父親のことを思い出します。芸術家を愛しているのか、その人が創り出した作品を愛しているのか。芸術家を愛する方法を、蒔野に出会う前から洋子は知っていたのだと思います。

2人が恋に落ちる要素は、出会う前からお互いの中に生まれていたんだと思います。

人間は、他者と関わって生きていきます。そして関わる人間によって、見せる自分の側面が変わります。早苗と接する蒔野と、洋子と接する蒔野は違います。それは取り繕っているわけでもなく、ただ相手と上手く接するように適応した自分の一部なのです。祖父江と接する蒔野、武知と接する蒔野…。
洋子と蒔野の間に生まれた、「蒔野といる時の洋子」と「洋子といる時の蒔野」が、お互いの中で特別だったんだと思います。そして特別だから、生活という日常になることもできなかったのでは、と私は感じました。毎日は特別ではなく、つづいていく日常なのだから。
そして2人の未来は、誰にも分からない。だから、本当に愛しあっていた2人が一緒になれる未来もありうるのかもしれない。そう想像できる余韻を残してくれたことに、この小説の優しさを感じます。

 

私はKindle版で読みました。やっぱり小説は電車の中でもカフェでも読んでいる間、没頭できるのがいいですね。ぜひぜひ読んでみてくださいね。

 

                                                                         終わり